Manual Medicine 大場 弘 Blog 

マニュアルメディスン(徒手医学療法)は全身をトータルに捉え身体の連関性を追求する医学です。
ここではマニュアルメディスンによる治療法や、症例などをご紹介していきたいと思います。

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能楽師 山村庸子先生に学ぶ(その一) 

声と息

文化の日、明治神宮では恒例の古武道の演武会が催されていて、柳生新陰流兵法の演武を応援に行くことになっていたのですが、気がついたときには予定の時間から1時間が経っていました。おかげで明治神宮に着いたときにはすでに東京柳生会の演武は終了していました。これほど時が経つことを本当に忘れてしまったことが、以前にあっただろうかと思わずにいられないほど、朝からあっという間の4時間、能楽師の山村庸子先生とのお話しに夢中になってしまっていたのです。とにかくいろんなことを教わることができました。その中からなにを取り出してまとめていいか本当に迷ってしまうほどの幅広く深い内容のお話しでした。

○田○○子さんのご紹介で、今年の春に山村庸子先生が演じられた羽衣を観賞する機会に恵まれました。まるで裾野の広がる富士山のように、静謐さのなかに安定してたたずむ立ち姿は今でも脳裏に蘇ります。剣術で、あのような構えと立ち方ができたらなあと、とても刺激を受けたのです。

山村庸子先生は女性としてめずらしい能楽師のお一人で、伝統的に伝えられてきた和の発声を、自然の声を失いつつある今日の日本人に蘇らせたいと精力的に活動をされています。最近の母親は優しく弱々しい声で子どもに語りかけるために、“だめ”という言葉に響きを持てない。そのために子どもを制することができなくなっている、と独特の観察眼から一つ興味深い話が印象に残りました。

日本語はあまり顎関節を動かさずとも、口の動きだけでも十分に話すことができると指摘されました。欧米人のように大きく縦に口を開閉させて話すことはないわけです。日本古来の発声は、息の遣い方を意識して、息を十分に遣うことだそうです。鼻から前に抜けるような声ではなく、軟口蓋で鼻に抜ける息を閉めて、かわりに顎の奥方向に息を広げ、声帯の響きが身体に鳴り響くようにするのだそうです。息をつかわず声だけでの謡と、息を十分につかった謡の違いを演じてくださいましたが、息をつかった謡は、咽の奥から響いたり、胸の中央から響き渡ったり、あるいは横隔膜のある胸郭の底部から広がったり、まさに多彩で豊饒な音色と響きが、聞いているこちらの身体に伝わってくるようでした。
山村庸子先生は、能に使う鼓や小太鼓などの鳴り物を持参して、小学校で特別授業をやることがあるそうで、そのとき子ども達がいちばん驚くのは楽器の響きではなく、山村先生の声の響きに驚くと話されました。本当に子ども達の驚きがわかる気がします。マイクを使わずに、しかも面(おもて)で口をふさいだ状態で、会場いっぱいに響く謡で能を演じるわけですから、伝統的な和の発声にはやはり独特の技能があります。

私の理解としては、息をつかって声帯で生じた音を、上顎の奥に誘導し、そこから上方へ、あるいはまっすぐ咽頭の後壁へ、あるいは脊柱前面に沿って身体へ逆戻りさせるように、下へ下へと響かせる多彩な息の遣い方のようでした。そのために、「根を張る」という表現をされていましたが、どうゆう感覚なのか・・・。

山村庸子先生が話され実演されたことを正確に再現できているとは言えないかも知れませんが、とりあえず話を進めさせてもらいます。

山村庸子先生がおっしゃるには、日本の伝統的な和の発声の特徴は、息を逃さず、身体に溜めるというのです。息を出し切れば、自然に息はスッと入ってきますが、その息を腹で身体に保持しつつ、少しずつそしてできるだけ長く、音の響きに代えていくのです。声帯だけに頼って声をつくるのではないというのです。声帯の声だけでは響かないというのです。声は息にのるものとして捉えています。

人はそれぞれが自分の自然音を持っているので、その音を見つける必要があると言います。声は出そうとせず、息を適量に声帯にまわして声をのせるという意識だと言います。息は鼻の方向に抜かずに、後方奥にそして下へ下へと導くことでさまざまな音色に変えていくのだそうです。子どもの声は上方に、しだいに下方へ導くことで、若者から中年へと、年齢に応じた演じ方ができるのだそうです。翁の声はお腹に響くように導くということでいちばん難しいと言うことでした。腹から響いてくる声を出すわけです。すごいものです。

私自身、本来の声は高めで、男性は女性と違って腹式呼吸が身に付いているのでコツさえつかめばできるということなのですが・・・

女性は、もともと腹式呼吸が身に付いていないため、それを覚えることは結構たいへんなことを話されていました。社交的な女性は、人に話したいという気持ちが強いけれど、呼吸ができていない人は、話すとき声帯で声を出そうとするために、顔が前に出てくるところがあるというのです。そのために、頸椎に負担がかかりやすいとまで観察されていることには驚きでした。

さて「息を溜める」ということをよく話されました、息を溜めるとはどうゆうことなのでしょうか。身体感覚から出てきている表現であるために、山村庸子先生も解剖生理学的にどのようなことであるか理解したいところであるようなのですが・・・。

横隔膜が下がったところで、それに対抗するように下から上方に力を感じられ、腹にボールがあるような感覚であると言います。解剖学的には腹腔を一つのボールとみなしているのでしょう。

解剖学的には骨盤隔膜の張りと、深部の腹筋群のはたらきもあるわけですが、おもしろいことに、息を響きに代えて少しずつ出すにつれて下腹部は引っ込むのではなく、前に膨らんだまま緊張している感じがあるようなのです。もちろん息がいっぱい出ていくようであれば、腹筋の緊張が増していくぶんなりとも引っ込みますが・・・、とにかく下腹部の充実感は保たれているという不可思議なところがあります。もちろん腹式呼吸が基本となるのでしょうが、さらに特別になにかありそうなのです。

今度、東中野にある梅若能楽学院を訪ねて、指導を受けることにいたしました。また、ご報告させていただきます。

山村庸子先生のお話しと実演を感じてみたい方は下記の催しに参加されてみてはどうでしょうか。
第7回緑桜会 こころみの会 「日本の声」
11月30日(日)午後1持から、杉並能楽堂にて(丸の内線中野富士見町駅徒歩5分):
・山村庸子先生の謡の発声
・ 復曲狂言「東西迷」 山本東次郎氏
お申し込みはFax03−3292−3267(緑桜会 山村庸子)でお願いします。
精神科医 神田橋條治先生の質問会(21.09.12)
 

気づきのための補助線

このところ何かと重なることがあって参加できなかった神田橋先生の勉強会に久しぶりに出席してきました。神田橋先生には患者さんをご紹介いただくことがあり、ご挨拶をしなくてはと思っていたのですが、“久しぶりだね、患者さん何人か行ったと思うけどみんな喜んでいるよ”と神田橋先生の方から声を掛けていただきました。先をとられてしまったようで、こちらはただ頭を下げるだけになってしまいました。

 

今回、私は質問を出していなかったので、後ろの席で余裕をもって全体を眺めるような気分で参加させてもらいました。神田橋先生のお話は、ジグソーパズルのように参加者の質問を組み立てて、ある一つのまとまった語りにしてしまうような印象を持ちました。バックグランドに精神分析の自由連想法のようなことがあるからでしょうか、参加者のさまざまな質問からそこに大きな意味を描き出しているように思えました。

 

冒頭、幾何学の問題を解くときに補助線を引くことで解答につながるように、患者さんの訴えにもまずそうした補助線になるようなことを探りなさいと話されたのです。

 

患者さんをよく観察せずにただ抽象的な概念や理論に基づいて治療をおこなうことは、実際の臨床の場面では多大な負担を患者さんに強いることが少なくありません。これは私たちの徒手療法の世界だけでなく、歯科の咬合治療を見てもそうです。流行の理論で治療されたことで、苦痛を背負わされた患者さんがどれだけいることか・・、(でも、歯医者さんが悪いわけでもないのですが)。精神療法の世界でも、頭でっかちで患者に接してはいけないと、神田橋先生は指摘されてきました。患者さんの苦痛を自分の知っている知識や理論に短絡的に押し込んではいけないことになるのでしょうが、それではどうしたらいいのかとなってしまうのです。神田橋先生の話される補助線をどのように見いだしたらいいのでしょうか。

 

神田橋先生は、治療家は素人さがなくなってはいけないと言います。素人の感覚で患者さんに接することが大事だと言うのです。患者さんに接して自らのうちに湧いてくる想いや感情を素直に受けとめることから始まるというのです。

患者さんに、“今、話を聞いていてこうなふうに思ったのですが”と治療家が伝えたとします。すると患者さんは、“そうゆうことを言っているのではなくて・・”、と言ってくるでしょう。このとき、治療家と患者さんの間のズレが現れることになります。こうしたズレの見つけることで、何がズレを導いてしまっているのか明らかになっていくというのです。

 

しかし患者さんは自らの問題が人に理解してもらえないと、その深刻さを痛感することになります。そうしますと自殺をはかることにもなりかねません。表面化した絶望感をどのように受けとめたらいいのでしょうか。絶望には言葉の慰めは効果がありません。非言語的な心の支えが必要となってくると神田橋先生は話されています。

 

一人、一人、患者さんの気持ちに共感するだけでなく、状況や場すなわち全体に共感することも必要になってくると言います。そのことで、とるべき行動に意味が深まってくるのだといいます。

こんなおもしろい話をしてくれました。家庭の問題に対して、父親はたいへん細かく自分の家族を観察していて分析したことを話すことがあるそうです。神田橋先生は、“そこまで分かっていて、何とかせぇよ!”と言いたくなるそうです。父親の関与せざる観察こそが、父親が家庭に関与していない家庭の病理と話されていました。

 

観察だけに終わってしまっても何の意味もなさないわけです。

 

あるカウンセラーの方が登校拒否をしている子供の相談を受けて、とにかく一緒にゲームであそぶことから始めたそうです。そこでその子供と話が盛り上がるようになっていったら、その子供は学校に通い始めたと述べられ、専門家として何もしなかったのにどうして改善したのでしょうかという質問でした。

 

素人的な感性を抑制せずに患者さんに関わる、まさに答えはそこにあったわけです。

 

殻に閉じこもって自己表現ができない子に、どのようにしたら子供らしい快活さを見いだすことができるか・・

逆に、勉強がものすごくできる子といえども、ひょっとしたらその子は勉強に逃げ込んではいないのか・・

 

ある参加者の質問で、いつも自分の非力さや無力感を感じてしまうということがありました。私たちも患者さんに接してこうした想いをもつことも少なくありません。神田橋先生は、絶望の深さが深いほど、しみじみとした共感が湧いてくるものだと話されていました。たまに人を救ってあげられることもあるだろうから悲観することはないと答えて笑いを誘っていました。

 

私たちのたどる行程とは修行のような気がしてきます。

 

私たち治療家にあっても、抽象的な概念を操作して新たな考え方を見いだしながら一歩一歩進まなければならないのですが、実際の臨床にあっては個別の事例から本質を見いだしていくという、まさに修行させられているようなものです。そして患者さんもまた、日々の苦しみを体験のなかから自分を見つめ直し新たな気づきを得ていくための辛い行に励んでいるようでもあります。

 

遠方からいらした患者さんに相談を受けたことを思い出します。この方は、歯科治療で左右二本づつ歯を削られてから、まるで宇宙に投げ出されたように自分の身体がどうなっているのか分からない状況になり、左顎のあたりでストンとなにか外れたような感覚になってから全身に痛みがあらわれこれまで10年近く苦しんできたというのです。

 

はて、宇宙に投げ出された感じとは・・、どんな感じなのでしょうか。

底知れぬ暗黒の世界に投げ出されたどうしようもない孤独感と不安感なのでしょうか。

それとも、足をつけることのできる地面がなく、漂うような感覚なのでしょうか。

ここで私の専門的な立場で機能神経学的に考えてみますと、歯という身体感覚に重要な感覚器が一度にシャットダウンされたようなものであり、中枢神経でたいへんな混乱が生じたのでしょう。そのために筋肉の正常な緊張が失われ、顎関節に異常が生じたように思えます。そして本来抑制されるべき不必要な痛みの信号を抑制できないために、全身に症状があらわれてきたように思えたのです。

このとき浮かんできたことは、この患者さんに今必要なのは中心感覚ではないかという閃きでした。そこで、私自身がある時期やっていた方法を教えることにしました。それは、頭でなく、お腹にすべてスッと吸い込む感覚です。夜空の星を見るのではなく、お腹に吸い込む感覚です。見る意識があると頭に入っていきます。見るという意識をなくして、お腹に吸い込んでしまう感覚です。このことを話しましたら、とても辛いときに海を眺めていると波の音もすべて自分の中に入ってくる感覚があったと話されました。辛い体験を重ねてきた患者さんは患者さんなりに行を深めていることを実感できたのです。中心感覚を養い、正中の呼吸軸が生まれればきっと全身が統合され、宇宙に放り投げ出されたときのことも忘れ、症状も緩解してゆくように思えます。

 

患者さんはすでに自ら洞察していることがあり、それに気づきをもたらしてくれる補助線を必要としているように思えます。

すでに自らのうちにあるもの、未だ表面化してこないものを導き上げる補助線があるように思えます。


未だ意識せざるものを顕在化させ、クールな自覚で眺めることができるとき、創造的な気づきが生まれてくるように思えるのです。専門家はそれぞれが自らの工夫で補助線を見いだすことが必要なのでしょう。

 

 

マニュアルメディスン研修会 in 山伏修行のメッカ・羽黒山
 

828/29日(土/日)、山形県鶴岡市羽黒町で、大いなる自然の生命に触れる体験をマニュアルメディスン研修会でおこないます。

 

この研修会の準備と下見を兼ねて、山形へと千数百キロの道程をドライブしてきました。

土曜の夜に出発、深夜に宮崎県と山形県の県境にある七ヶ宿でテントを張って野宿をしました。

ここは大きな湖があり、その湖畔には『天使ランド』と呼ばれている小さな施設があります。昭和初期にタイムスリップしたような雰囲気に包まれるとても奇特な場所です。小さなお子さんにとって、心豊かな情操教育の場になっているような感じがしました。

 

早朝、山形県の上山温泉街に入り、共同浴場で朝一番、熱い湯に浸かりました。

すばらしい温泉です。

 

ここ最近、老化からくる腰痛に悩まされていたのですが、まるで私が患者さんを治療しているときのように、具合の悪いラインと腰椎の部位が直ぐに浮き上がってくるのを知覚できました。

 

いわばこの実のラインを身体呼吸で通すところから、私の身体呼吸療法が始まります。

さらに身体呼吸を深めるためには、すぐには意識化できない虚のラインを探り出し、それから虚実を合わすように、感覚的に重ね合わせます。この意識的な操作によって、正中の呼吸軸を通す身体呼吸運動が誘発されてきます。

 

湯船に入っては出て、水をかぶってはまた入ってと、何回か繰り返しました。温泉の力を借りて障害のある部位を自らの意識で通したり、正中の身体呼吸を誘発し呼吸を開くことを試みました。こうして旅行記を書いている今、おかげでとても快調になっています。

 

上山温泉を後にし山形道を北上、新庄から、秋田県の湯沢に入り、鳥海山の麓をぐるりと回って再び山形県に入ることにしました。回り道も思わぬ発見があり、楽しいものです。


途中、鳥海高原へのルート案内板を見ていましたら、『法体の滝』という所があります。辿るべきルートから外れていますが、寄り道してみることにしました。

 

思いがけない、すばらしい発見がありました。

 

外国のリゾート地を想わせる
透明感のある空間

そのなかに、その存在感を示す大きな滝


広い滝壺、そこから流れ出てくる清流


木々の緑に包まれ、ひろがる青々とした芝生の野原

 

早速、滝壺に入って泳いで滝に近づこうとしましたが、流れ出ようとする水流の勢いに近づくことができませんでした。


留守番をしている老犬に代わり、ドライブに連れてきた10ヶ月目の若いマメ柴と一緒に川で水遊びです。こうして水遊びができる所を探していましたので、大満足でした。

鳥海高原にあるキャンプ場で一晩を過ごし、象潟から吹浦へと至り、道の駅で焼き魚と岩カキを食しました。鳥海山の伏水がわき出る海岸で育った岩カキの大きさに、きっとだれもが驚かれるでしょう。

そして実家に入り、お墓参りをしてから、目的地の羽黒山国民休暇村へとやってきました。

 

羽黒山での研修会の目的は、静かさに入り込み、生命力に出会うことです。

頭蓋療法で云うところのStillnessです。私は「静謐さ」と訳しています。

 



この静謐さを味わうために、静かな場が必要です。

樹齢千年の杉に囲まれた五重塔のあたりが一つ最適かも知れません。そこで静かに瞑想してみる一時を、研修会の時に持ちたいと考えています。

 

828/29日には、休暇村の会議室で実技的な研修会をおこない、静かさの中から、治癒力を引き出すことをテーマにします。

 

研修会の最後には、自然のシャワーを浴びてみようと思っています。

流れ落ちる水の中で、静かさを体験してみようということなのです。

その場所として、私が以前、山伏の方に連れられて滝修行をおこなった所にしました。

 

そこで今回の旅の最後として、下見を兼ねて、独りで滝修行をやってみました。

 

最初は水の冷たさと流れ落ちる水の勢いに圧倒され、呼吸が荒く、我慢しているのがやっとの状態です。


しだいに呼吸が整い始めると、硬くなった身体が緩んでゆき、流れ落ちる水の勢いも弱く感じられるようになります。そしてなにかしらフワッとした温かさに包まれてゆくような感じになってきます。


そのうち、水の音だけの世界となり、雨のなかにいるような感覚になってきました。

先ほどまで、勢いよく身体にあたっていた水の勢いもなくなり、滑り落ちるように、さらさらと流れ落ちる感覚になるから不思議です。

 

それだけ身体が緩み、リラックスしたということなのでしょう。


身体の緊張がなくなってゆく過程を、こうして味わうことができたような気がします。

 

道元の云われた「身心脱落、脱落身心」とは、このように心地よい心境なのでしょうか。

 

研修会の時にも、静謐さの中にさらなる深みをのぞくことができればと願って、羽黒山を後にしました。



帰途、もう一度、上山温泉で一時を過ごし、そこから一気に自宅へと帰ってきたしだいです。



 


 

学術大会報告
 

得体の知れない痛み

 

日本カイロプラクティック徒手医学の学術大会が、94/5日と福岡市で開催され、二日目でしたが参加してきました。今回が第12回目の学術大会です。

1回目の学術大会設立には私が大会長を務めさせてもらったのですが、あれから12年が経ったわけです。

 

今回は、幸いにも担当する仕事もなく、ひっそりと参加しようと思って行ったのですが、会場に入るやいなや、大会長の荒木寛志先生それに大御所の馬場信年先生には“九州の学会には来てもらえんのかと心配しておった”と迎えてもらい、なんだか心あたたまる感じがしました。

 

今回の学会は九州カイロプラクティック同友会のみなさんはもちろんのこと、いろいろな方々のご協力があったようです。

とくに、大会のメインテーマ『痛みを考える』をプロデュースされた守屋徹先生(山形県酒田市)のご足労は大変であったろうと推し量られます。

 

日本で痛み研究の第一人者であった熊澤孝朗先生のご研究に触れ、インタビューを申し込まれたり、そのときのお話をテープに起こしたりと、かなりご苦労をなされたようです。

 

ところが、学会開催が迫っていた折に、熊澤孝朗先生が突然にもご逝去なされ、守屋徹先生にかれましては、たいへん心を痛めたようでもあります。

このときのインタビュー原稿の校正を自らの責任として引き受けてくださった熊澤孝朗先生に、それが最後の雑務としてご負担をおかけしたのではないかと声を詰まらせていました。

 

この貴重なインタビューの内容は、日本カイロプラクティック徒手医学会のホームページに掲載されているとのことです。

 

私自身、熊澤孝朗先生の書かれたもので、とても印象に残っていることがあります。「痛みは歪む」と書かれた表題の章でした(脳を知る、細胞工学別冊2000)。

その伝わってくる感覚的なイメージが、私たちの触感的なイメージにとても合い、記憶にのこっております。

 

痛み系は侵害刺激や精神的ストレスによって歪み、可塑的な変化を受けて慢性的な痛みを生じさせるというコンセプトだったと記憶しています。

 

今回は残念なことに熊澤孝朗先生のご講演を拝聴することができませんでしたが、熊澤孝朗先生の足跡を継がれておられる先生方のご講演をお聴きし、たいへん勉強になりました。

 

 

痛みのなかで、RSD(反射性の交感神経ジストロフィー)と呼ばれていた得体の知れない痛みがあります。

ご高齢の患者さんが転倒して腕を折り、長い間ギブスで固定しなければならないことがあります。最近、私の患者さんでもこのようなことがありました。

 

長い間こうして動かさないでいると、腕や手が腫れ上がって、我慢できないほどの灼熱痛が生じることがあるのです。骨折などの損傷が治った後でも、意味の分からない痛みで苦しめられることがあるのです。

 

現在、国際疼痛学会ではこのタイプの痛みを、複合性局所疼痛症候群CRPSのタイプ気箸靴栃類しているというのですが、このメカニズムはまだ解明されていません。

 

今回、住谷昌彦先生(東京大学医学部付属病院・痛みセンター)が、私たちの学会でこの痛みのメカニズムについて、たいへん興味深くしかもとてもショッキングな研究成果を講演されました。

 

住谷昌彦先生によれば、視覚的な情報と身体からの体性感覚情報にずれが生じているために、脳が正しく感覚情報を統合できず痛みを発生させるのだと言うのです。

 

長いこと腕を動かさずにいると、腕の関節や筋肉からの情報が途絶えてしまいます。ギブスがとれても、情報が正しく伝達されているとは限りません。


ギブスをしているときでも、どこか指でも肘でも肩でも動かすことができるようにしておくことがとても大事になります。

一方、視覚的な情報は私たちの脳ではきわめて大きな比重をもっています。鏡を使って、健側の腕の動きを見ながら、患側の腕を少しでも動かすようにイメージをもつことはきわめて有効なリハビリにもなります。


RSDのような得たいの知れない痛みが発症するのは、空間にどのように腕が動いているのかという身体の位置感覚と、視覚的な空間での身体の動きのイメージが合わなくなっているというのです。

 知覚と運動が統合される情報の循環によって、身体運動の円滑な営みがあるのですが、それが入り口のところでミスマッチが起きてしまっているというのです。


運動の意図にそって腕が動くためには、見えないところで実に複雑なはたらきがなされています。その一つが運動に必要な血液の供給ということがあるでしょう。これには交感神経の活動が裡に働いているわけです。

神経系のさまざまな働きは互いに関わり合いながら円環的に情報が循環しています。

 

複合性局所疼痛症候群CRPSのタイプ気任蓮∋覲亰呂反搬隆恭亰呂出会う大脳(頭頂葉)という最高レベルで、いわば新皮質の統合不全が起きていることになるのでしょう。

 

その結果、脳幹の網様体を介して交感神経活動に深刻な影響を及ぼすことが考えられます。

細かい細胞分子レベルでの機構はわかりませんが、きっと炎症や免疫的な機構をも巻き込んだかたちで痛みが腕や手に現れてくることになるのでしょう。

このように、住谷昌彦先生のご講演を聴きながらあれこれと考えておりました。

 

最後に、住谷昌彦先生に質問をさせていただきました。

それでは、もともと目の見えない人達はRSDが発症することはないのではないかと?

知り合いの研究者の仲間で話し合うことがあるそうで、やはりそうした事例はこれまでないとのことでした。

 

とても興味深くしかもショッキングなお話でした。

こうした貴重な学会を開いてくださった荒木寛志先生をはじめ実行委員のみなさま方にはお礼を申し上げます。

Dr. Carrick News
 注意欠陥障害/注意欠陥多動障害の児童の学習能力が飛躍的に向上

 

またまたDr. Carrickがやってくれました。

全米だけでなく海外のメディアで話題騒然となっているようです。

彼の発表されたばかりの研究論文を数十社にものぼるメディアがいっせいに取り上げたために、Carrick Instituteの電話が鳴りっぱなしと、秘書の方が彼の研究論文を添付して知らせてくれました。

 

Int J Adolesc Med Health. 

The effect of hemisphere specific remediation strategies on the academic performance outcome of children with ADD/ADHD.

 

「注意欠陥障害/注意欠陥多動障害の児童の学習能力に及ぼした大脳半球機能に特化した治療戦略の効果」と訳せるのでしょう。

 

大脳半球の機能に注目して多面的な学習プログラムを組むことで、注意欠陥障害/注意欠陥多動障害の児童の学習能力と認知能力が飛躍的に高まるという内容の論文です。

 

6歳から12歳までの注意欠陥障害/注意欠陥多動障害(ADD/ADHDと診断された122名の児童に、60分セッションで12週間にわたって大脳半球の特化した多様なプログラムを実行し、読み、読解、数学的論理、スペリング、文章による表現、リスニング、口答表現などの能力検査で比較したところ、24レベルの飛躍的な向上がみられたというのです。また、ADD/ADHD評価法Brown Scaleによると、対象となった児童の81%の保護者がもはやADD/ADHDの異常な行動が見られなくなったと証言しています。

 

各セッションは感覚刺激、運動トレーニング、エアロビックス、それに学習トレーニングを含んでいます。具体的なところでは、メトロノームのリズムに身体運動を合わす聴覚的フィードバック、原始的な反射を抑制するエクササイズ、それに家庭での学習トレーニングのようです。

 

この12週間の学習トレーニングプログラムは、「Disconnected Kids」の著者である Dr. Robert Melilloとの協力で開発されたようです。

咬合関連性頭痛

かみ合わせと頭痛の関連についての講演会、そのお知らせです。

 

歯科の領域にも驚異的に精力的な活動を行っている先生がおられます。

そのお一人が、中村昭二先生(日本生体咬合研究所代表)です。

 

中村昭二先生がなにか学術的な活動をなさるときはいつもなぜか私に講師をやってくれないかと話をもってきます。

とても私ごときが出るところではないのですが、中村先生の熱意に結局は受けてしまい、後で困っているのです。

今回も、117日(日曜日)、東京ステーションコンファレンス5Fにて、中村先生が中心になって学会活動の一端である部会を開くということでした。私には徒手療法の立場から、頭痛の神経学的な考察をして欲しいということのようなのですが・・・

 

中村昭二先生は、歯科治療は全身との関連においてなされるべきであるという信念をお持ちで、そのために歯科と徒手療法の人たちとの協力関係は不可欠であると主張され、学会を先導されています。

なかなか腰がとても重い私たちにも、熱心にこうした学会に参加を促しているのですが・・・

 

徒手療法に携わる先生方は実利的なセミナーで、即効的な技術を教えるものでないとなかなか関心を寄せることはないようです。それでもなかには、原理的にと言いましょうか、医科学的な知識を基盤に問題にアプローチされようとする先生方もおられ、そうした先生方の深い見識に接しますと頼もしく感じられます。

 

さて、頭痛という神経内科的な問題に対して、歯科医師の先生方と私たちがどのように協力し合えるかということになりますが・・

そのためには頭痛発症のメカニズムについてたがいに意見を交換し合うことが、たいへん有意義なことではあるでしょう。

 

徒手療法の立場から頭痛について何を語ることができるか、いろいろと思い巡らしているのですが・・

 

咬み合わせとの関連から考えますと、上部頸椎と三叉神経を中心に、緊張性頭痛についての考察が一つのテーマとなるでしょうし・・

偏頭痛に焦点を合わすと、自律神経との関連、そしてまた自律神経系に影響を与える脳のはたらきについての考察が二つ目のテーマになるかと考えています。

上部頸椎の緊張となりますと、眼の影響、硬膜のテンションの影響などいろいろとポイントが浮かび上がってきます。最後に、徒手療法における診断と治療というかたちでどのようにまとめられるか・・・

 

今回の頭痛部会には、医学的な立場や歯科からの頭痛への取り組みなど、45名の高名な諸先生のご講演も予定されているのですが、権威のある諸先生方にまじって私のような一介の治療家が話すというのもなんだか場違いな感じがしないでもありません。

徒手療法の取り組みを知っていただくためにもずうずうしく出て行くしかありません。

 

興味のある方、応援に来てくれる方、ご参加のほどお願いいたします。

 

これからの歯科医療 “咬合関連性頭痛の提唱”

2010117日 午前10時から午後4

丸の内1-7-12、東京ステーションコンファレンス5F(東京駅新幹線日本橋口、サピタワー)どなたでも参加できます。参加費6000円(事前申し込み5000円)

事務局のEmail: info@dental-headache.jp

詳しくはhttp://www.denta.headache.jp

感覚から言語的・概念的な内部世界へ
 

構想・戦略を描く能力

 

構想・戦略を描く能力とは、限られた時間のなかで効率よく一つ一つのことを学び取ってゆく作業、頭のなかでさまざまな分野との関連づけをおこなう作業、そしてストリーや原理的な法則性を見出す過程など、実に複雑でスピーディな操作が必要とされるようです。

 

脳の中でそうした複雑で高度なプロセスが起きることは、また一つ驚異的なことでもあります。

 

脳は感覚を通して、外的な世界を選択的にとりこみます。こうした一次的な感覚的な情報を重ね合わせた表象(イメージ)をつくりだし、そのときどきの経験に感情という心的な評価がおこなわれています。たんてきに言えば、そのときどきの体験で好感がもてるのか、嫌な想いがするかどうかです。ストレスになるほど嫌なこともあるわけです。

 

こうした過程は、人間の脳においては、複雑な過程の始まりに過ぎません。

五感や感情に結びついた表象は、さらに言葉にとって代わられる過程に進んでいきます。青色という実際の色彩は、青という言葉でおきかわることができるのです。いったん言葉に代わると、それは独立してさまざまな言葉と結びついてゆきます。そうなるとどうでしょうか・・、そこから自然の描写や、抽象的な概念、観念といったさらに抽象化された世界がひろがってゆくのです。

 

私たちは、世界を抽象化することにより、外界を内部にモデル化し、概念上の世界モデルを創造します。最初に見て聞いて感じる表象によりモデル化し、それから言葉に代えて使います。言語という象徴(シンボル)世界は、内部にありながらも外部の世界にもひろがりをもつ抽象的な世界(メタ・モデル)になっています。

 

抽象化された世界は遠く現実とかけ離れたところにもいってしまっています。まさに数学の世界とはそのようなものでしょう。世界は数式によって表されます。それがこんにちでは量子力学的な確率的な波動関数の世界です。この現実的な世界は実は高次元的な多重世界である可能性があるわけです。まさに予測できない展開がいつ起こっても不思議ではないことが分かります。



 

思考の枠組み
 

予測できない展開のなかで、人間のいとなみとは大海の中で漂流する小舟のようでもあります。静かな海のときもあれば、嵐が吹き荒れ翻弄させられるときもあるわけです。

 

人が行動するときには、みずからの位置を示すための指針となる空間識(空間座標に基づいた認知)や、身体を自由に操作するための身体地図をもつにいたっているのです。

 

もう一つ、時間的な系列を認知する時間的な感覚もまた本来備わった認知のしかたとして重要です。さまざまな出来事の中に時間的な流れを感じ、そこにあるストリー性(筋書き)や文脈(コンテキスト)を見出しています。それが“意味を見出す”ということにもなるわけです。

 

意味を見出すということじたいが、なにかある必然性のもとでおこなわれていることに気づきます。

意味は、見て聞いて感じる世界にあるものではなく、意味をつくるその人のフレームのなか、その文脈(コンテキスト)によるものです。意味は、思うこと、信じること、価値があると考えることの、心の中の状況によって決まり。そしてまた、心の中は社会的・文化的な見えない枠組みによって縛られてもいるのです。

 

私たちは自ら創り上げた概念的世界に生きています。

 

いつもある方向で考えてしまう、決まった範囲の行動しかとれない、こうした背景には、それぞれの個人的な枠組みが形成されているからにほかなりません。先入観と呼ぶこともあるでしょうし、社会的な常識ということもあるでしょう。

 

昔、教科書で「塞翁が馬」という逸話を習ったことを思い出します。

いろいろな出来事に人はそのときどきに意味を見出しているのですが、不幸な出来事も状況が変われば吉と変わり、そしてまた状況が変われば凶と化すという内容の逸話でした。物事の意味や価値評価(感情)は状況しだいで変わってゆくのです。不幸な出来事も、貴重な体験として意味を見出すこともできるのです。

 

「良いこと、もしくは、悪いことというのはないのだが、思考がそうさせるのだ」とは、ウィリアム・シェークスピアの言葉だそうです。


構想・戦略を得るには、時流の変化を洞察できる冷静な観察眼が必要なのでしょう。

 

常識という枠組み
  

サイモントン夫婦がおこなっている癌患者へのワークのことを聞いたことがあります。癌患者に癌細胞を食べ尽くす白血球を視覚化させることで癌が消えてゆくことがあるといいます。ただ、サイモントン夫婦は、癌は自らがつくり出していると信じられる人達だけが彼らのワークのクライエントとなり得るというのです。

 

病気は自分がつくり出したものと信じられる人はそんなに多くはないでしょう。たいていの人はとてもそんな風に考えることはできないと思います。病気は何かの原因でしぜんにできてしまうもので、自分に責任があるとはとても思えないのです。癌が見つかったら、一日でもはやくそれを取り除きたいと思うでしょう。

 

癌はもちろんのこと、病気そのものが忌み嫌うできものであって、なんら得することはないと信じているところがあります。それが一般的な常識です。

癌ができたのは自分の所為であって、それに対して責任を負うことを決心できる人はまずいないでしょう。

 

しかし、サイモントン夫婦はクライエントに、みずから癌をつくり出している責任を十分に自覚するように求めているのです。

 

数年前になったのでしょうか、私の友人が癌になったと言って、治療にやってきたことがあります。どこの癌だったか忘れてしまったのですが、“こうして癌になったのは自分の所為なんだよ”としみじみと反省していたのを思い出します。彼自身、スピリチュアルな分野に造詣が深かったので、自分で治療をやってみるよと言っていました。それからしばらくして、“癌が消えたよ”と連絡がありました。

身近でこうした事例に出会いますと、ますます身体と心の不可思議さに衝撃を受けてしまいます。医師に対して“手術はしません”ときっぱり宣言した彼の決意と覚悟には、今でも敬服しています。

 

ところで、自分の所為で病気になったということは、どういう意味なのでしょうか?

病気に責任を負うということとは・・・

実はこれは、だれも答えてくれそうにない問いかけかも知れません。自分で自分の心の裡に問わざるを得えないことのようです。

 

自分の心の裡にみずから訊ね、みずからその答えを得ることができる方法を考えている先生もいるようです。自分の身体とコミュニケーションできたら、いろいろと転換できそうです。

眠りも脳の働き
  

このところ東京の日の出は645分ころになっています。

いつまでも寝ていたい冬の寒さです。

 

新生児は数時間おきに目を醒ましては、母親の乳を求めて泣きます。

老年期には、睡眠中に何度も目が覚めるようになります。健康な老人でも、夜中に何度か数秒間ですが目を覚ましているそうです。その時間がとても短いので本人は覚えていないのですが、脳波測定には記録されるそうです。夜中に眠りが分断されますと、高齢者だけでなくだれでも昼間に眠くなってしまうわけです。

我が家の老犬も一日中寝ているようなものですが、たとえ夜中でも数時間おきに水と排尿のために徘徊しているようです。時には、なくなっている水を要求して、時間かまわずに吠えはじめ、眠りを妨げます。

 

覚醒と眠りは交互に入れ替わっています。覚醒をもたらす中枢が脳幹上部にあり、眠りに誘う中枢が脳幹下部にあります。脳は自発的に眠りに導き、また自発的に眠りから目覚めをもたらします。覚醒・睡眠は脳の働きによるわけです。眠っているからと言って、脳がまったく休眠しているわけではなさそうです。

ある研究によれば、日中でもこの約90分から120分間隔で入眠しやすい周期的な時間があらわれているということで、睡眠の門が開くと表現されています。私たちを目覚めさせている覚醒信号の波と、睡眠に入りやすい周期が同時に私たちのなかで進行していることになります。私たちの体内では昼夜をとおして二つのプロセスが互いにせめぎあっているというのです。(ジェニファー・アッカーマン「からだの一日」147-148p

 

ところで、人は必ずしも決まった時間に寝て、まとまった睡眠時間をとるようになっていなかったらしいのです。現に未開発な自然のまっただ中に住む種族のなかには、夜の間に時間にかまわず誰かが起きて歌い始めたり、踊り始めたり、会話を楽しんだりしているそうです。私たちの社会でも夜に活動している人たちも大勢いるわけで、まとまった睡眠のとり方は生理的に決まったものでもなさそうです。私自身も受験の時には、学校から帰宅してすぐに就寝して、夜中に起き出し勉強しては朝方にまた少し寝るというような生活を送っていたこともありました。生活習慣と言いましょうか、もっと大きな目で見れば、文化が人の睡眠のとり方に影響を与えているのかも知れません。

 

それにしても睡魔に襲われるときの全身の倦怠感とか、とにかく横になりたいという欲求は堪えられないものがあります。車を運転しているときに襲われる睡魔は怖いものです。高速で車を走らせているときに瞬間的にも睡魔に襲われたら、眼前に前の車がということになってしまいます。

 

また、セミナーでは昼食後に聴講生がコックリと始める時間帯があります。一生懸命がんばろうとしても、優勢となった睡魔についにコックリと始まります。胃が伸ばされると、入眠作用が起きるらしいのです。昼でも夜でも食事の後に眠くなるのは、胃の伸展作用があったわけです。

 

こうした睡魔に打ち勝とうとしても、身体の力が抜けるように全身の疲労感がひろがり、重力に負けて横にならざるをえないこともあります。疲労が蓄積しているわけです。

 

朝の光でセットされる体内時計が一日の覚醒信号を刻んでいます。このペースメーカーは視交叉上核にあるといわれています。

また一方、睡眠時には約90分の長さで浅い眠りと深い眠りからなるサイクルが繰り返されています。深い眠りから浅いに眠りに変わるサイクルの切れ替わりに目が覚めすいので、睡眠時間が6時間(4サイクル)とか7時間半(5サイクル)が、結構すっきりと目覚めが良いわけです。

 

夜になって床につくと、一気に深い眠りに入っていきます。最初の二つの睡眠サイクルの中で眠りはもっとも深く入ります。脳が休息するときでもあります。

朝方になりますと、逆に浅い眠りが優勢でよく夢を見ています。浅い眠りのときには目がキョロキョロ動いていますのでレム睡眠と呼ばれています。Rapid Eye MovementREM(レム)です。このとき身体は弛緩していますので、朝方に目が覚めて身体が動かそうにも動かすことができない「かなしばり」を経験することがまれにあります。夢を見ているときに身体が動いては危険なので、身体は弛緩しているのです。脳が活動し、身体が休息している眠りということになります。

 

脳の神経細胞(ニューロン)にまったく刺激が伝わってこないと、そのニューロンとそれに連なるニューロン網は死んでしまいます。それを防ぐために夢を見て、脳は活動を維持しているのでしょうか。

我が家の老犬は一日中寝ているような状況ですが、“生きているかぁ”とちょっと覗き込む気配を感じ取って、薄目を開けて反応します。それでもいびきをかいてぐっすり寝ているときもあります。

 

一日の睡眠時間の中で、脳が本当に休息をとっている時間はごくわずかです。このわずかな時間がさらに短くなってゆくということは、長期的にみて、しだいに心身を蝕んでゆくことになります。疲労の蓄積です。

たまには、食後にそのままぐっすりと数時間寝てしまうこともしかたがないことです。風邪をひかないように、毛布くらいはかけてもらいたいものです。