Manual Medicine 大場 弘 Blog 

マニュアルメディスン(徒手医学療法)は全身をトータルに捉え身体の連関性を追求する医学です。
ここではマニュアルメディスンによる治療法や、症例などをご紹介していきたいと思います。

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滝禅のすすめ

平成28年 滝行日記

(後半に11月20日まで、最近の体験を綴っています。)

 

御嶽山の清滝と新滝で滝行を今年もまたまた体験してきました(7月16-18日)。同行された先生方と一緒でしたので、みなさんのエネルギーと御滝の力が一緒になり、これまでにない感覚に包まれました。足元から大きな水が湧き上がってきて上半身まで浸ってゆくような感覚や、ただ流れ落ちる滝の音の中で静寂な空間を意識することができました。このままもっとこの時空間に浸っていたいという気持ちでいるうちに、波状的にドッドッと打ち落ちてくる水の勢いに上体が揺れ動かされ、身体からの感覚に呼び覚まされます。

 

滝行は怖いものとも言われますが、清々しい自然との一体感はたいへんすばらしいものです。ただ、自分を客観的に見つめているマインドサイトを保っていることが大事かと思うのです。自分の心をみつめる冷静な自己とでも言いましょうか。気持ち良さのために、長く冷たい水を浴びていては低体温になってしまうことがあります。滝から出られなくなることもあるそうです。独りよがりの自我をなくすことが自然との一体感につながると思うのですが、まったく自己意識をなくすということではないでしょう。自分自身の心の裡を照らす醒めた意識とでも言いましょうか、自分を見失わないためのマインドサイトです。

 

 

8月

あいかわず暑さが続いている頃ですが、夏も過ぎてしまうとなつかしく感じられてしまうので、心置きなく滝を浴びに行きたい気持になっています。赤城の大滝をめざして途中から山道に入ってゆきました。なかなか大滝にいたることができずにいましたら、小さな滝で滝行をおこなっている二人連れの方達がいました。ここで私も滝を浴びても良いでしょうか尋ねましたら、それじゃ神様をおろしてあげるから、お題目を三回唱えて滝に二回入りなさいと言われそのとおりにしました。滝から出て、もっと滝の中で瞑想したいのですがと、ちょっと不満げに言いましたら、水遊びじゃないんだからと一喝され、これから小さな社と天狗岩で祈祷するから一緒についてきなさいということになりました。その間、滝行の怖さとか神様とのコミュニケーションには普段から身を清めていないといけないなど、修行に励むための心がけを話してくれました。神様の存在を実感し、あの世を信じながら現世の平和を願って、こうして何十年も修行を続けている姿には、ただただ頭がさがりました。

 

お二人にお礼を言って、殊勝な気持で帰り道を急いだのですが・・・、超常的なことを欲したり宗教的な神様に頼るということではなく、ただひたすら自然と一体となりたいと願う滝行ことがあっても良いのではと、私らしい頑なな気持がまたむくっとあらわれてきました。でも、神様を崇拝する信者さんの姿からいろいろと学ぶことが多かったのも忘れられないことです。

 

 

9月

なかなか機会がなく赤城の不動大滝に再びチャレンジできずにいましたが、ようやくバイクで独り行くことができました。先回は登り口が分からなかったため山道をたどり途中の小さな滝で、偶然お会いした信者さんと一緒に滝行を体験させてもらいました。

どうしても粕川不動大滝に行ってみたかったので、今回はあらためて滝沢不動尊から粕川を沢づたいに行きました。道なき道を、岩間を登り降りの連続で、なかなかたいへんでした。なかなか人を寄せつけないところにありました。よやく切り立った崖の間から突然現れた大滝の威厳さには、畏れさえ感じてしまいました。

 

現在、大滝の手前に橋を架ける工事が進んでいて、来年にはだれでも観光ができるところになってしまうのではないかと残念な思いもします。

私が滝を浴びるのは、本格的な信者さんに言わせれば水遊びに過ぎないのですが、滝に受け容れてもらえる自然との一体感を求めています。信者さん達が禊ぎとしての滝行ではなく、いわば立禅のようなもので、滝禅と言うことにしました。ちょっとの間でも心身脱落になれないものかと・・・

 

心身脱落とは禅宗の道元禅師が表現した言葉ですが、一切を放下し何の執着もない自由無碍の精神状態をただひたすら座禅することで得ることだそうです。

 

滝と一体となれることで、身も心も一切の執着を離れて自由で清々しい境地をひとときでも感じられるのではないかと思っているのです。

 

初めての大滝に最初は畏れも感じましたが、終わって見上げてみましたら、なにか親しみを感じてしまっています。大滝にすこしは受け容れてもらったような気持ちになれました。

 

 

10月10日

9月、10月と台風や雨の日が実に多かった。澄み切った秋空が懐かしく感じられます。

雨の日の合間にようやく訪れた晴れた祝日、再びバイクに乗って赤城の不動大滝へと、今回は工事現場のところから粕川に降りて、大滝へと入りました。関係者がいたら叱られるところですが・・・。ここからは大滝まですぐです。

 

雨の日が続いていたために水量も多く、しかも一段と水の冷たさが身にしみる厳しい体験となりました。滝禅とはほどとおい荒行のようなものでした。たしかにこうした厳しさの中では、なにか唱えていないと耐えられないのかもしれません。カッツ(喝)と、ハラから気合いをなんどもだしながら耐えました。とても心身脱落とはいきませんでした。こうした厳しさの中でも心身脱落となれたらすごいことだなあと思ってしまいます。

それでも数回チャレンジし、終わってしばらくしてから身体が透き通るような清々しさを感じていました。この清々しさに惹かれしまうのです。滝の醍醐味です。

今年もあと数ヶ月、また晴れの日に出かけてゆきたいと考えているところです。

 

 

11月6日

比較的温かい週末、これはチャンスとまた赤城の不動大滝へ出かけてきました。滝を浴びてからのバイクではさすがに厳しいものがありますので、車で行ってきました。紅葉に色づき、滝場には日光が射し込み虹がかかって出迎えてくれているようでした。滝を観に来る人もあり、その間隙に滝禅を何度か試みましたがとてもとても心身脱落とはいかない厳しさでした。だんだんと水の冷たさに耐えることができなくなってきました。今回は紅葉を観に人の出入りがあり、独り静かな心境になれなかったせいでしょうか、とくに印象にのこることがなかったのですが、五感や認識でとらえられないこともあるだろうと、次に期待して帰途につきました。

帰りに寄った粕川温泉では、心身脱落ならぬ心身ごくらくの心境でした。

 

よく赤城大滝で滝行をなさっている方が、もっとも勢いの強い滝の中央にある岩に座わることができると教えてくれました。岩のところでは立つことが危ないと思っていたので、まさに滝の中で座禅にチャレンジしてみたいものです。冬場の滝では数分しかできないかもしれませんが。

 

 

11月20日

 

突如として現れた気温22度の日曜日これはと、渋る家内を連れ出して行ってきました。先回、工事をやっているところから降りてゆくときにバランスを崩して一回転、受け身をとった大事な手が擦り傷をおってしまいましたので、今回は不動尊から沢に降りて向かいました。着いたときには汗で下着が濡れていましたので、良い準備運動になりました。そのためか滝に入っても水の冷たさを感じませんでした。ただ今回は滝の右側から初めて入ってゆきましたので、足場がどんなのか分からず不安感がでたのでしょうか、滝の音が妙に怖ろしく感じられました。それでも二度、三度と入るうちに、滝の中心に近づくことができ、しかもこれまでなく滝禅に集中できました。滝から出てしまうと、どんな感覚だったかも覚えていませんでした。五感を超えて滝に融け込めたのでしょうか、ただ滝の音に包まれていたことだけが頭に残っています。最後に滝の勢いが集中して落下する岩の上で座禅を試みました。なんとなく座禅をやっている感じになりましたが、滝の勢いに弾き出されるように前につんのめってしまいました。終わってみて今回は、満たされた感じがありましたが、それでもまた次にトライしてみたいと願う気持ちが湧いてきます。回を重ねるたびに惹きつけられてゆくようです。

 

 

 

 

 

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