Manual Medicine 大場 弘 Blog 

マニュアルメディスン(徒手医学療法)は全身をトータルに捉え身体の連関性を追求する医学です。
ここではマニュアルメディスンによる治療法や、症例などをご紹介していきたいと思います。

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人間という存在の治療
重層的・多次元的な存在

光はさまざまな色彩の波長成分を含んでいますが空間を透き通る光は透明です。光の当たる表面がどのような光の波長を反射するかでその色彩が知覚されます。分光器なるプリズムによって光はさまざまなスペクトルの色彩に分けて見ることができるわけです。

人間もまた重層的多次元的な存在です。光のようにプリズムを通して分けてみることができたら、人間はどんなふうに見えるのでしょうか。

神秘的な思想では、肉体、エーテル体(気、生命体)、アストラル体(幽体、内的な経験層)、メンタル体(精神)、コーザル体(宇宙意識)など、重層的多次元的な存在としてみているようです。いろいろな背景があってこうした見解にいたっているわけでしょうから、とても深い意味があるのでしょう。

関連性がないかも知れませんが、神経学的な身体像について考えてみました。
目を閉じて触れたときの身体の感触・・・
目を閉じて静かに全身に注意を払ったときの身体感覚・・・
実際に目で見ている視覚的な身体・・・
ビデオのような映像を通して見たときの姿や身体運動・・・
心理的なイメージ・・・
内臓感覚、気分、感情・・・
深い瞑想状態で訪れる自然との一体感・・・

言葉で表せないさまざまな身体像が浮かんできます。

ところで自分の自我をみせられたようなことがありました。
先だって、北九州市の八幡からわざわざ訪ねてきていただいた金崎真一先生にお願いして、私自身患者として治療していただきました。とても不思議な感覚に包まれ、とてもスピリチュアルな印象をもちました。頭部に手を当ててもらっているときには、なにか焦げるような匂いが漂っていました。治療してもらっているときに、ふとなにかしら自分の自我を透明なゼリー状のものとして感じられ、結構分厚い自我に包まれているんだなあと、自分ながらあきれてしまいました。自分の偏屈さ・頑なな性格がなんとなくわかるような気がしたのです。自分自身で自分の自我を観察させられたような思いです。
治療の後すぐに、目を閉じたままに、模擬刀を頭上から何度か振り落としてみました。これまでになく真っ直ぐに自分の正中を面として斬り下ろすことができたような感じがしました。このような斬り方がいつもできたらなんとすばらしいことか・・、自分の正中軸を真っ直ぐにきっちりと整えてもらえました。
金崎先生は自分のお子さんの病気を治すために、仕事を辞めてこの道に入ってきたそうです。神仏にすがる一念でお子さんの病気を治されたそうです。まさにスピリチュアルなレベルで治療をおこなっている先生という印象をもちました。治療にもいろいろなレベルの治療があることをあらためて知らされた感じです。後日、メールで「自分の治療も身体呼吸療法と名乗らせてください」とありました。“こちらこそたいへん名誉なことです”と返信させてもらいました。


病気とは何か・・・
治療とは・・・
身体症状の意味とは・・・

こうした問題を考えていくと、ホメオパシーの考え方はたいへん興味深くとても参考になります。ホメオパシーは、人間という重層的多次元的な存在そのものに対する処方になっているようなのです。
18世紀末ドイツの臨床医ハーネマンは、薬の純粋な作用を知るために、健康な人間でその薬を摂ったときにどうなるか調べておく必要があると、マラリアの薬として使われていたキナ皮をみずから摂取してみたというのです。すると、急な震えとだるさ、頻脈、発熱というまさにマラリアに罹ったような症状を襲われ、健康な人に引き起こす症状の原因物質は、同じ症状の病人を治すことができるのではないかと閃き、ホメオパシーという奇想天外な治療法を編み出していったということです。
病気の症状を病気の本質とせずに、回復するための身体の反応としてとらえているところもまた画期的です。
ハーネマンは、植物・鉱物・動物など、三千種以上ものあらゆる物質がどのような症状をもたらすか実験的に調べデータを蓄積し、『マテリア・メディカ』という薬効書としてまとめたそうです。
こうした薬剤によって最初は症状の一時的な悪化が生じ、その後に症状の沈静化と消失という治癒過程にいたるということがわかったのです。最初に症状が悪化したようにみえるのは、揺り動かすかのように不均衡な状態を回復させるためと考えたのです。しかしこうした反応はできるだけ強く起こってはもらいたくないものです。そのためにハーネマンは最適な濃度を得るために、薬剤を希釈していきながら試していったそうです。希釈して攪拌すればするほどその一時的に悪化する反応は弱くなり、しかも意外にもその効力はますます増していくことが確かめられたのです。ついには薬剤の分子がもう存在しないというレベルに達しても、その効力が失われることがないという驚愕の事実につきあたったのです。
毒性学では、毒性をもつ物質の濃度をさげていくと毒性は弱まり、ある濃度以下になると逆に好ましい効果へと変わっていくこと(ホルミシス現象)も発見もなされたのです。
ホメオパシーの処方は、患者の身体症状、性格、生活習慣、嗜好、などあらゆる面からその個人の特徴をとらえ、その人に特有の薬剤(レメディ)を選択し、身体症状がメインであれば希釈度合いの低いものを、心理的・精神的な問題が強い場合には希釈度合いが高いものを処方するといいます。まさにその人間の核・存在そのものに対しての一滴が、感情的・精神的な劇的な変化を引き起こすと言います。

身体呼吸療法もいわば波動的な治療です。ホメオパシーの一滴のように、存在そのものへはたらきかけることができるようにさらに研鑽していきたいものです。
「人は死ぬから生きられる」(新潮新書)

脳科学者の茂木健一郎氏と禅僧南直哉氏の対談

この本の前半は「無記」をテーマに話が進められています。無記とは根本的なところは語るに語れないところがあるということなのですが、仏教では本来、死語の世界とか霊魂とはまさに無記なのです。お坊さんが死語の世界のことを語らないということは変な話しなのですが、死んでからのことよりも、今を生きぬきくことを本来説いているわけなのです。言葉でどうのこうのと分別のあることを言ってもみても苦しみから救われるわけでもない、それでも生きていくことの意味を、言葉を超えて見つけていかなければならないのかも知れません。

でも私たちはいつもいろいろなことが頭に浮かび、あれこれと考えてしまっています。ゆきあたりばったりなことの方が多いのですが・・・
剣術をやっていても、無心になろうと思っても、無心になろうと思うことじたいがすでにその考えに捕らわれてしまっているのです。

また真剣に物事を深く考えることも一つや二つあります。
しかし、いくら考えても考えても、ますます問いそのものが深まっていくことがあります。仏教では不立(ふりゅう)文字(もじ))と言うらしいのですが、まさに私たちの臨床の現場でもそうです。つきつめていってもでてくるのは、さらに深いところでの“どうして?”という問いそのものなのです。

わからないものはわからない、考えるというところの根底には考えることができないところがでてきます。しかし、それで済ましていることもできない。新たに生まれてきた問いのもとでまた考えていく、この繰り返しだけが続いていくようです。まさに反復です。

脳科学者の茂木健一郎氏と禅僧南直哉氏の対談「人は死ぬから生きられる」(新潮新書)102pから「存在の根拠としての欠落」というテーマに話し合いが進行しています。その内容は、フロイトやラカンの考えと通底しているようで、とても興味深く読んでしまいました。自我が芽生え、根源的に消去されてしまった欠如を言葉で埋め合わせようと生きている私たちの姿をあらためてまた見てしまった思いです。

一年前にブログで無意識の世界についてあれこれと書いていたこと思い出しました。
反復という体験、そこには「根源的に消去されたものとの結びつきを欲動する心のはたらき」があるとフロイトは考えていたのです。さらにフロイトは「あらゆる生命の目標は死」なのであり、生命はたえず生命以前の無機的安定性へと向かおうとしていると考えるにいたったのです。そして、フロイトの思想を引き継いだラカンは、「かつては生きていた主体」の欠如を埋めるために欲動が引き起こされると考えたのです。

この私たち自身の「存在の欠落」に気づくことは容易なことではないでしょう。忘却の彼方、無意識の底にあるわけですから。
禅の目的はその底にいたらんとしています。

この本では、存在の欠落にいたったときに見える世界に話がおよんでいます。
無我という自己にあらざるところに触れたときに感得する世界のリアルさ(実相)とか歓喜(法喜禅悦:仏の教えに接したときの喜び、禅定に入ったときの悦)を話されています。

雨上がりの夜ひとり公園で立禅していたときに感じた葉にしたたる水滴の輝きのリアルさと感動、また早朝静かな山寺で座禅していたときに聞こえてきた鳥のさえずりや雨の音の清々しさには忘れられない私自身の体験があります。世界のリアルさとはそうゆう感覚であったのかも知れません。

世界のリアルさを知らずに生きていること、それは苦の反復ということになるのでしょうか。もちろん楽しいこともあれば苦しいこともあるのですが、それでも生きていくことは苦だというのです。仏教の経典には「一切皆苦」とあるわけです。

絶えず存在の欠如を埋めるために生きている・・
そのことを余儀なくされている・・
それが苦ということなのでしょうか・・・
人生を苦として、否応なく引き受けなければならない苦も生まれてきます。

科学文明とは、苦というものを除外しようとしてきました。
しかし、苦とは生きることの本質と結びついているということであるなら、苦を取り除いたら生きていることではなくなってしまうのではないかという危惧もあります。

苦に対して悦楽があるとするならば、存在の欠如を求める欲動において快があるのでしょうか。しかし、その欠如の底をかいま見ずには、悦楽はないのかも知れません。

脳科学者の茂木健一郎氏と禅僧の南直哉氏の生きざまが伝わってきました。

2008年に書いたものです、参考まで
http://obahiroshi.jugem.jp/admin/?mode=entry&eid=4
http://obahiroshi.jugem.jp/admin/?mode=entry&eid=6
http://obahiroshi.jugem.jp/admin/?mode=entry&eid=7
機能神経学(カイロプラクティック神経学)

Dr.
カーリック来日講演

Dr. Carrick 来日講演(写真提供: 伊藤彰洋 DC)
 

200912月1日、カイロプラクティック神経学の大御所であるFrederic R. Carrick先生が初めて来日され東京で講演会を開きました。この講演会に参加できた先生方はたいへん幸運であったのではないでしょうか。

 

Frederic R. Carrick先生は、投薬や手術ではなく徒手的な方法だけで神経学的な難病を緩解させていくことを可能にする機能神経学を樹立している天才的なドクターなのです。今回の講演では、ディストニアやディスキネジアなどの異常姿勢や不随意的な異常運動を、ある方向の眼球運動を処方するだけで改善させていくという現実を観ることができたのです。

 

脳はうまく活性化させられることで、障害を乗り越える新しいストラテジーを創発していくことができることを実証してくれているわけですが、それが短期間にしかも驚くほど効果的に回復をもたらすことができるとなると、世界中を探しても、Frederic R. Carrick先生の右に出る先生はいないでしょう。

 

医学は長い年月をかけて多くの研究者が地道な研究成果を積み重ねて進歩してきていますが、概して、先輩達がつくってきたレールをさらに繋ぎ足しているということかも知れません。カイロプラクティックにおいては、こうした研究の積み重ねとなると、現代医学とは雲泥の差と言わざるを得ません。ほとんど現代医学の軒下を借りています。ただ、カイロプラクティックではまったく独創的に、現代医学にはない奇想天外な発想からたいへん優れた治療技術が生まれているとも言えます。Dr. Carrickの神経学はまさに今日のカイロプラクティック界にとっては革命的な飛躍と言えるでしょう。

 

Dr. Carrickは昏睡状態にある患者さんを数多く回復させてきたことで有名になりましたが、今では世界各地で神経外科医が観ているところで施術し、彼らを驚嘆させています。今回の日本での講演会には医師の方がいたのかどうかわかりませんが、ぜひ医療に携わる方々に知ってもらいたいという気持ちでいっぱいです。私にできることと言えば、先ず理学療法士や作業療法士のみなさんにこの機能神経学を伝えてあげられたらと思っています。

 Dr. Carrickと筆者

私自身、Dr. Carrickの神経学を、医師でしかも数々のカイロプラクティックの認定資格を取っているDr. Soung Won Lee先生に師事して5年間にわたってソウルで勉強してきた経緯があり、日本人でカイロプラクティック神経学専門の認定を受けた一人ですが、気持ちをあらたに真摯に取り組まなければと思ったしだいです。

 

これまで私自身の方法論で、身体呼吸療法によって脳の循環を良くしたり、身体バランスをとって脳にきちんとした刺激が入るようにとやってきました。それでなんとか機能神経学できることをカバーしてきたという想い(思い上がり)もあったのですが、やはり脳の血管疾患やニューロン変性などで障害を受けてしまった患者さんでは、きちんとした検査評価によって適切な刺激伝達が必要であることを痛感してしまいます。

 

感覚刺激によるニューロンを通じての脳の賦活というDr. Carrickの方法論をきちんともう一度臨床で見直さなければと思っています。もちろんこの方法論に適した患者さんということでもありますが、それは脳血管障害の後遺症の方とか、大脳基底核や小脳などの神経病をかかえている患者さんで、Dr. Carrickの方法論に則って機能神経学的なアプローチをうまく活かすことができるだろうと思います。一般の患者さんで、やみくもにこの方法論を押しつけるような検査から検査では、患者さんの余計な負担になってしまうことにもなりかねません。

 

こうしたことがわかっていても、興味本位な研究心と言いましょうか好奇心と言いましょうか、なかなか抑えられないところがあり、今しばらくは施術者の興味本位と試行錯誤から患者さんに負担をかけてしまうかも知れません。患者さんに多少の負担をかけてしまうことの代償に、なんとかきちんとした技術なり洞察力を早いうちに身につけたいものです。

 

私たちが臨床でみている不定愁訴を訴える一般の患者さんでは、意識的あるいは無意識的な反応が強く反映してあらわれるために、純粋に神経反射的な反応をその中から見いだす(引き出す)ことは難しいために、神経反射的な反応を診て判断するDr. Carrickの方法論を会得することはかなりたいへんです。例えば、前庭眼球反射では頭が左後方回転すれば、眼球は右方向に向きます。眼球の動きと頭の動きは反射的には反対なのですが、意識的に片側を見ようとすれば眼も頭も同じ方向を向くわけです。検査する施術者はフッと頭を振って、眼の反射的な反対方向の瞬間的な動きを観察しなければなりませんが、このような反射的な素早い動きを捕らえて左右比較するとなると結構むずかしいことです。Dr. Carrickの神経検査ではこのような微妙な反射をとらえなければならないのです。無いと思えば、そうした反応は無いに等しいものです。

 

まさに奇跡的な治療をなんなく行っているDr. Carrickの治療技術とは、はたして我々にできることなのでしょうか。ひょっとしたら彼しかできないことなのかもと思ってしまいます。そうだとすると、誰がやっても同じような結果をもたらすという医療のあり方とは異なってしまうのですが。彼には特別な感性があるだろうと前々から思っていました。脳のさまざまな部位をまるで透視してしまうようなそんな不思議な感性です。今回の講義には数百もの最近の医科学論文を根拠にして準備されたと話しておりました。こうした特別な感性はさまざまな努力によって培われることでもあるのでしょう。

 

講義で紹介された論文それぞれがとても興味深く、それらを理解していくためにはかなりの時間が必要なようです。今回、聴講された先生方が検査の形だけわかって治療現場で試してみても、きっとすぐにギブアップしてしまうかも知れません。臨床の現場ではどんな反応が出るか、きわめて多様性に満ちあふれているからです。即興的なひらめきと判断が必要とされます。そのために基本的な仕組みやメカニズムを知らなければなりませんが、こうした数多くの資料や論文を勉強していなければ身に付かないことでしょう。機能神経学を学んでいくことは、とにかく根気が必要です。機能神経学に魅せられ、ひょっとしたら自分しかなおせない患者さんに一人でも出会えるようにと励んでいきたいものです。このことがDr. Carrickの機能神経学を追体験し、彼のみている真実を確認する手段かと思えるのです。

機能神経学 (カイロプラクティック神経学)
 

Dr. Carrick来日講演から その2

 

今回の講演会では、Dr. Carrickの考え方を改めていろいろと垣間見ることができました。

 

私がDr. Lee のところに通って、Dr. Carrickの臨床実技のビデオを観ながらカイロプラクティック神経を学んでいるときはまったくチンプンカンプンで、Dr. Leeの熱心な解説によってようやくわかるそんな状況でした。Dr. Carrickの臨床実技は、次から次へと神経検査で明らかにする所見に基づき患者さんの病理を探っていくものです。きわめて早口で解説しながら、さまざまなモダリティ(刺激方法)を適切に用いて即興的に脳を賦活しその場で患者さんの状況を変えていたのです。ただ驚嘆するばかりでしたが、今回もまたあの当時よりもさらに驚嘆させられました。

 

Dr. Carrickの考え方の一つとして、さまざまな感覚刺激を用いて障害のある脳のニューロンを賦活することにあります。視覚、聴覚、嗅覚などいろいろな感覚刺激の方法がありますが、とくに重要な刺激となると眼球運動による刺激、前庭感覚や固有感覚の刺激なのです。固有感覚刺激となると筋肉や関節に対する刺激ですから、カイロプラクティックの手技となるわけです。重力場の空間で生活している私たちにとって、こうした刺激はきわめて重要な意義を持ち、脳のすべてのニューロンに対して影響を及ぼしています。このように機能していないニューロンを刺激し、あるいは密接に関連するニューロンのはたらきを賦活し、そのことで脳の機能をたかめ障害を乗り越えさせようとする意図があるわけです。

 

今回のDr. Carrickの講演ではさらに新しい考え方を示していたように思えました。Dr. Carrickが話されたことは、これまでのカイロプラクティックの基本理念と180°転換するようなところがありました。通訳を担当された先生は当惑されたのでしょう言葉が詰まってしまい、簡単な英語でしたが彼の言葉を通訳することができなかったほどです。

 

Dr. Carrickの講演では、読んだことのない論文の内容を次から次へと早口で飛び出してくることを予想していましたので、今回、私は通訳をお断りし、リラックスして聴講させてもらいました。

今回、Dr. Carrickは中学生か高校生に話すようにわかりやすく話していたのですが、通訳をされた先生は、自分の持っているコンセプトと相容れないことを言われて頭の中がまっ白になっているような場面がありました。通訳をされた先生方にはたいへんなご苦労をなさったわけです。

 

Dr. Carrick: We never treat subluxation. We teat compensation.

通訳の先生:・・・・・・・・・

Dr. Carrick: We never treat subluxation. We teat compensation.

通訳の先生:・・・・・えーと・・

 

この後、しびれをきらしたDr. Carrickは話を次に進めていったのです。通訳の先生は、カイロプラクティックの本分であるサブラクセーション(椎骨の変位)を治療するなと言われてすっかり戸惑ってしまったようです。カイロプラクティックはサブラクセーション(椎骨の微妙な偏倚)を矯正することを治療の目的とし、その代償作用としての筋緊張のアンバランスであるコンペンセーションは自然に解消するということになっていますので、Dr. Carrickの言っていることはこれとまったく逆のことなのです。Dr. Carrickの言いたかったことは文脈をおさえていないと理解できないことなのですが、通訳の先生にはそうした余裕がないので、無理からぬところです。

 

さてDr. Carrickが言いたかった新しいコンセプトを端的に言いますと、脳の中では誤ったイメージがあってそれに基づいて誤った筋緊張のアンバランスが起きているということなのです。したがって脳の中の誤ったイメージを正すように刺激をすべきであって、決して椎骨の変位(サブラクセーション)を矯正することを目的とはしないというのです。

筋肉のトーンが低かったら筋緊張が高まるようにフィードバックをおこない、筋肉のトーンが高かったら筋緊張を抑制すべきだというのです。

椎骨の偏倚をもたらしている筋緊張のアンバランスは脳の中の誤ったイメージによるものだから、筋肉の固有感覚の方から脳にフィードバックをかけて誤ったイメージを再教育する必要があると言っているのです。

 

たとえば片側の耳が聞こえなかったら、脳の中の音源のイメージはたとえ音源がまっすぐ前方にあったとしても聞こえる側の方に偏る傾向になります。

だれでも頭の位置がまっすぐになっている人はいないのです。頭位は三半規管などの感覚入力の誤差を正すように傾きます。だから、頭が傾いているからと言って、そのために上部頸椎を矯正することは正しくないというのです。むしろ脳に頭が傾いているということを知らせるフィードバックが必要だというのです。

 

頭が傾けば眼球も正しい視覚像を得るために代償的に偏倚する傾向となり、眼球は強く作用する外眼筋に引っ張られる傾向となります。神経反射的な作用として、右方向に頭が傾いていれば、眼球はその反対方向へのロール(Roll:前後軸での回転)する外眼筋の作用が強くなります。頭が右後方へ回転していれば、眼球は反対方向のヨー(Yaw:縦軸での回転)の反射が強く作用します。頭がまっすぐ下方に傾けば、眼球は反対方向ピッチ(Pitch:水平軸での回転)の反射が強く作用します。このように眼球は頭位と関連して、外眼筋によって強く作用させられる動きが生じていることになります。また眼球は頭位だけでなく、脳のさまざまな神経機構に組み込まれていますので、眼球運動にはたらきかけますと脳にたいへん大きな影響を及ぼすことができるのです。

 

Dr. Carrickは今回の講演で、ある方向への眼球を動かす簡単なリハビリだけでも、異常な姿勢緊張や、異常な不随意運動を劇的に解消できることを臨床で示してくれました。徒手療法にとって、眼球運動に関わる神経機構がいかに重要な意味を持ち得るかを教えてくれたのでした。

機能神経学 (カイロプラクティック神経学) その3
 


眼球運動と姿勢

 

Dr. Carrickの来日講演が大きな刺激となり、患者さんの眼球運動を観察することが続いています。Dr. Carrickが診ているような脳に神経学的な疾患を持つ患者さんとはいきませんが、ほとんど多くは、いろいろと不定愁訴をかかえる患者さんの眼球運動を観察させてもらっています。

 

それにして眼球の動きを通して見ても、人間とはいかに深く複雑であることかと、ため息が出てしまいます。Dr. Carrickが説明してくれた神経反射的な眼球運動でさえかなり難解なことなのに、それに輪をかけて複雑な様相が表れてきます。

 

新たな難問として・・
心理的なことによって眼球がある方向によく動いてしまうことがあるようなのです。

たとえば、ある女性の患者さん、右膝内側部の痛みを訴えています。直立した姿勢を観察しますと、頭も上体も右前方に捻れるように回転しています。どうも右膝にその捻れのストレスがかかってしまうようです。

 

それではと、さっそく眼球運動を見てみることにしました。この女性の患者さんにとっては、眼球運動の検査なんてどうでもよかったのでしょう。母親に対する恨み辛みを話し始めました。そのまま患者さんの眼の動きを観察していましたら、母親に対する恨みの言葉が出るときに決まって右下方へと眼球が動くのです。法律的に訴えようか思うと言ったときには左下方へ眼が動きます。自分の辛さを語るときには左上方へと眼球が移動することが多いのです。

 

どうも眼の動きと一緒に、頭も上体も右下前方へ捻れるようなモーメントがかかるようです。

仕事上、なにか神経学的な処方を考えなければなりません。とりあえず、右下方へ眼球運動が偏る傾向を抑えるために、視運動性反射を利用して眼球運動を誘発することにしました。これだけで体の捻れが改善しました。

 

この患者さんには次のように伝えました。

“お母さんに対する恨み辛みを語っているときに眼は右下方に動く傾向がありますよ、そのために身体も捻れるのかも知れません。右膝が痛むのもこれに大いに関係しているようです。とりあえず眼を右下方にいかないように左方向を見る運動をやってみましょうか。”


これで問題が解決するとはとうてい思えませんが、なにかきっかけになるかも知れません。

 

 

もう一人の例は30代後半の主婦の方です。両耳に高音性の耳鳴りを訴えます。店の入り口のチャイムが頭の中で反響するとも言います。

この女性の立位姿勢は、頭部が右側に傾き右肩が上がっています。頭部と上体の関係から脊柱に緩やかなS字の側彎があるように見えます。

眼球運動を検査してみますと、眼球は右方向へ偏る傾向があり、顔がそれを補うかのように左方向にわずかに回転します。神経学的なことを考慮に入れて、頭蓋療法で施術してみました。施術後、姿勢を再評価してみましたが変化は起きていませんでした。

 

なにか考えながら話をするときに、両眼が左上方へ動く傾向がありますので、そのことを伝えましたら、なんと眼球運動で思考を変えるトレーニングに行っているという話になりました。右下方へ注視して簡単な引き算をやっているというのです。

 

このことがきっかけで、いろいろと心の裡を話し始めたのです。このとき、最初の検査で見つけられた眼球と頭部の関係が顕著に表れてきます。そして、核心的なことを話し始めたころには、なんと頭の傾きがまっすぐになり姿勢が良くなっているのです。

 

眼球の動きと心理作用そして姿勢と、これらの密接な関連性を痛感させられています。


ただでさえ眼球運動の神経学を勉強するのがたいへんなのに、それ以上に大きな課題を背負ってしまったようです。

大動脈解離
 


触診で感じられた印象

 

今朝、大動脈解離の手術をされ、奇跡的に一命をとりためた方が患者さんでいらっしゃいました。まだ、腹大動脈に解離が残っていて、毎月、検査を受けて管理されているとのことでした。

たいへん貴重な体験となりましたので、徒手療法家として触れて感じた印象を忘れないうちに書きのこしておきたいと思います。いつか誰か先生方の参考になるかも知れません。大動脈解離とか大動脈瘤は、いつ爆発するかわからない爆弾をかかえているようなものです。触診でなにか手がかりとなることがあれば、治療家にとっても患者さんにとってもたいへん有益なことになると思います。

 

座位で背部から触診をしてみますと、上部腰椎から下部胸椎にわたって、たいへん細かな微振動が感じられました。私の触れた手が、患者さんの皮膚に融け込んでいくような感覚になったのですが、私の手のひら(掌)から前腕の皮膚にしびれ感がひろがり、細かな微振動が伝わってきたのです。意識をさらに深く感じ取るようにしますと、なにか流れる管の中で小さな渦がいくつも起きてその振動が皮膚に伝わっているような印象を持つことができました。大動脈解離があるときの触診感覚とはこのようなものかと、しっかりと記憶に留めておこうと思ったしだいです。

 

腹部から触診するとどのような感じを受けるか、仰臥位で腹部から触れてみたのですが、とくに特徴的な感覚はありませんでした。内臓臓器やお腹の脂肪がじゃましているのでしょうか、微振動は伝わってきませんでした。

 

 

この方はさまざまな不定愁訴をかかえていらっしゃったのですが、特徴的な症状は、右側頭部の蟻走感、右眼だけ視野が下半分Black-outするということや、ふらつき感、それに右上肢尺骨側にしびれ感がありました。右上半身で循環障害を引き起こす自律神経系の問題がありそうです。

私の治療を受けに来た目的は腰痛なのですが、明らかに身体の緊張バランスが右半身で強く、左半身が虚した緊張感のアンバランスが認められました。

 

こうしたさまざまな症状を持つ患者さんでは、とにかく全体として把握する必要があります。局部的な治療を施しても、また違ったアンバランスな状態をもたらし、症状が強く出たりすることがよくあります。今回のケースでは先ず、正中に縦走する呼吸の軸をつくることを最優先にしてみました。しっかりとした身体呼吸ができてくると、治療すべき局所的な問題が浮き上がってきますので、その都度、そうした問題へともどっていくようにしました。

だれにでも備わっている本来の呼吸、健康的な身体呼吸を見いだし、それを全身に育むことが大事であることを最近つよく思うようになっています。

 

またこの方がいらっしゃったときにどのような変化が起きているか、そして背部の微振動がどのように伝わってくるものか診てみたいと思っています。今回は、触診で得た感覚が忘れないうちに書き留めてみました。

眼球運動と姿勢 2
 

 

Dr. Carrickの来日講演が大きな刺激となって、患者さんの眼球運動を観察することが続きました。これまでたどってきたことがらが自然に組み立てられたようで、一つ話がまとまりました。沖縄の研修会で理学療法の先生達にこの話をしまして、彼らプロの立場から体験しもらったのですが、とても好評でした。

 

先だって、日本カイロプラクティック徒手医学会関東支部の勉強会(平成22213日)がありましたので、またここでも要点をまとめてちょっと紹介させてもらいました。この勉強会の様子は、理学療法士の山本尚司先生がまとめられて、ご自身のブログである運動連鎖アプローチ研究会ブログに写真入りで紹介されていました。さすがに山本尚司先生、眼の動きとうつむき姿勢の関係、ひいては自己の存在表現に大きく影響することに気づかれたようです。視線を変えれば身も心も変わります。山本先生をはじめ理学療法の先生方に喜んでもらえたようです。(運動連鎖アプローチ研究会、日本カイロプラクティック徒手医学会関東支部part3報告)

 

私たちが生活するうえで視覚はもっとも重要な役割をはたしています。眼の役割はもちろん見ることですが、それも正確にぶれずにきちんと見えていなければなりません。たとえどんなに早く動いていても対象物の像を、網膜の中の小さなポイントである中心窩というところにきちんと焦点を合わしておかなければならないのです。まさに戦闘機が敵の戦闘機を撃ち落とすとき自動追尾システムにログオンするようなものでしょう。ここで眼球を動かす筋肉のことを話すとたいへんなことになりますので、とにかく要点だけまとめてみます。

 

眼球を対象物に注視させる眼筋は、平衡器官の三半規管と神経システムで結ばれていて、しかも頭頸部を動かす筋肉ともきわめて密接に相互に連絡しあっています。この神経システムにはさらに身体を支えている抗重力筋からの入力もあるのですが、とくにここで重要な筋肉を一つだけあげますと、足関節周囲の筋肉が先ずあげられるでしょう。もちろん股関節や膝の筋肉などいろいろ大事な筋肉もあるのですが、話を一つにまとめるためには、どこか一つに注目しなければなりません。あとは応用です。

 

足関節の主な動きは屈曲/伸展です。水平軸に対しての前後方向での回転ですが、ヨットが来る波に前後で揺れるピッチという動きです。ちなみに垂直軸に関してはヨー、前後軸に関してはロールという言い方がされています。

 

この足関節のピッチという動きは、眼球運動では上下の動きや、上部頸椎での屈曲/伸展と身体バランスを維持するために、神経学的に密接に関連しあっているわけです。したがって、どこか一つを調整するだけですべてが変化します。たとえば、足関節の筋肉のバランスを整えただけで、一瞬のうちに上部頸椎の筋肉の緊張は変化し、しかも側方から見た姿勢も驚くほどきれいになります。先生方からは、オォ!と感嘆の声がもれてきていました。

 

逆に、眼球運動を調整しても同じように変化することになります。勉強会では、昨年一年間、厚木から夜行バスで名古屋の機能神経学講座に通ってくれた真壁大輔先生が、眼球運動を使ってものの見事に遮眼書字テストできれいな結果を出されていました。

 

遮眼書字テストは本当にすばらしい臨床検査です。福田精先生が発明された検査で、めまいで有名な檜学先生(京都大学名誉教授)に直接ご指導をいただいたことがあります。これは緊張性頸反射とか姿勢反射とよばれる原始的な反射を利用した検査ですが、眼を閉じて縦に字を書かせてゆくと、開眼のときの書字と比べて、片方に傾いたり、あるいは短く詰まったりすることがでてきます。頸筋の緊張バランスが、上肢の筋群のトーンに微妙に影響するからです。

左右の小脳半球にアンバランスがありますと、縦方向に書いてゆく字が大きく傾いてゆきます。あるいは小脳失調があれば、書いた字の字画はバラバラになってしまいます。この福田テストは小脳の機能検査にも使えるのです。

 

眼球運動と姿勢にまつわる神経学の話は、難しくすればいくらでも難しくなってゆき迷路に迷い込んでしまいそうです。また機会があれば、また一つ話をまとめてみたいと思っています。

機能神経学はたいへん難解な分野ですが、私たちの臨床にそくした簡単明瞭なかたちを抽出して役立てたいものです。

多次元的な世界
 

胡蝶の夢

 

「胡蝶の夢」は、道教の始祖である荘子の有名な説話です。

なにかの本で見て、印象深くのこっています。

 

『以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。

自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。

ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。

荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。』

 

 

夢の中で胡蝶であった私、今醒めてここにある私・・

今ここにある私は夢の中の私なのか・・

 

私自身、二度ほどあまりにもリアルな夢を体験したことがあります。

夢は夢に過ぎないのですが、そのときはまったく別の風景の中にいるという実感でした。フッと今あるこの世界に立ち戻って、そのときのたいへん奇妙な感覚に呆然としてしまったことがあります。

 

ですから、説話の中の荘周の気分がなんとなくわかるのです。

 

荘子はこの説話を通して、「物は分して存在してはいるが、分たざる所もまた存在しており、その根本は一の道であるから、この道に沿えば万物に通ずるのであって必ずしも区別されるものではないということ」を教えているというのですが・・

 

確かに荘子の教えはまったくもってその通りなのですが、あの奇妙な体験はまた異なった次元の世界があるような気分にさせるのです。

 

異なる次元の世界が重複しているような想いにかられます。

 

それがファンタジーという心の世界なのかも知れません。

それにしても、あのリアル感はまさに別の世界に踏み込んだような感覚は何なのでしょうか。

 

身体呼吸療法では、身体のさまざまな波に注意を払い、そうした波に意識が漂い全身をスキャンしてゆきます。全身を走査できる波(リズム)を見つけることができれば難しくはありません。

ただそうしたリズムはふと転調します。

このとき変化した波でみえてくる身体もまたその様相が変わります。

こうしたプロセスを通して、より深い問題点を探ってゆくことができています。

 

身体も、世界も、波動的な世界観からすれば、そのかいま見る様相は本質的に同一かも知れないと思ったのです。

大いなる構想を描く
  

羽田空港が新しく国際空港として開港したとのニュースが続いていました。世界のいたるところからやってくる国際線の乗り入れ空港としての位置づけ、それにプラスして地方空港への乗り継ぎ空港としての位置にある空港がハブ空港と呼ばれているようですが・・

 

お隣の韓国のインチョン空港が日本の成田空港に代わり、90以上の数にも上る日本全国の空港のために世界からの乗り入れと地方都市への中継空港としての機能をはたしつつあるというのです。こうした事情から、羽田空港がハブ空港としての役割を期待されているようです。

 

地方都市の空港の大部分が赤字の状況の中で、各地方空港がいかに中国や韓国からの観光客を呼ぶことができるのか、死活問題になっているようです。

 

地方都市の奮闘もあるのでしょうが、こうした地方都市の空港を特殊性や長所を把握し、日本全体としていかに国際的な見地から大局的な戦略を打ち立てることができるかが日本の課題であるといいます。

 

中央集権化されているはずの日本がこうした戦略を描けていないということは驚きでもありました。日本の頭脳はきちんと機能しているのでしょうか。

 

ひるがえって医療という世界をみてみますと、医療においても心と身体が分けられ、身体も各臓器に分けられそれぞれの専門領域では高度に医療化されています。

患者さんがお医者さんにいくつか症状を訴えると、それぞれの症状に応じていろいろな各科を回らなければならない状況になることがあります。それで患者さんが抱えている問題が解決するとは思えないのですが・・

 

外に現れるさまざまな症状は実はたがいに関連しあっていることが多いように思えます。「身体のいろいろなところは繋がっている。身体は一つなんですね」と感嘆する患者さんも少なくありません。

 

それに身体に現れるさまざまな症状は、実は、心という内的な世界と表裏一体の関係が濃密になっているように思えます。

 

医学の世界でも一つ一つの症状をみるだけでなく、人間として真っ正面で患者をみるということが必要です。そのための全体的に捉える能力を養う教育がきわめて大事なように思えます。

 

しかし、簡単なことではないようです。

一つの分野に精通することじたいが、至極たいへんなことのうえに、さまざまな分野を多重的に見渡してゆくことが必要になるからです。


鳥瞰的にと言いましょうか、大所高所から見渡し、しかも長期的な展望をもった視野から戦略的な構想を描くことは、新たな視点で大きな流れをつかむことのように思えます。

これまでの思考の枠組みを変え、新たな文脈(コンテキスト)で捉えなおすということなのでしょう。

こうした思考の転換をどう養ってゆけるか考えてみたいものです。

 

 

生命(いのち)と死
 

いのちの波動、その残響

 

小さな叫びをあげてから逝ってしまった我が家の老犬は、一晩、からだの中ではその残り火のようにかすかな活動を続けていました。しだいに冷たく硬くなってゆくからだに触れるとかすかながらも揺らいでいるのが分かります。翌朝にはその揺らぎもなくなっていましたが、真夜中に自然に排泄された汚物がありました。

 

生命の終焉に際し、身体の中から揺らいできては周囲の空間をも揺るがす不思議な波動があることをなんどか感じることがありました。

心臓が止まり死んでもしばらくの間、身体から揺らいでくるものがあるのです。

 

こうした感覚的な現象は、感じる人にとっては真実であっても、そうしたことを感じたことがない人にとっては、単に奇異な話にすぎないかも知れませんが・・・。

愛犬の生命力と死に接して先回の記事で書いてしまったその続きとして、この感覚的な現象を書き記しておこうという気持ちになりました。

 

私が最初に感じた揺らぎは、亡くなった母の遺体の傍で過ごしたときでした。治療しているときに感じている身体の中の体液的な揺らぎが、亡くなってもまだしばらく揺らいでいるのです。しかも、触れていなくても、私の身体のなかの揺らぎを大きく揺さぶるように波動として伝わってくるほど、はっきりと実感できるものでした。

 

母の遺体の傍で、揺らぎにまかせるように漂っていましたら、室内に入ってきた義理の姉が“あっ動いている!”と母の遺体を見て驚きの声を発したのですが、そのとき、私だけでなく他の人も感じることができるものなんだと思ったことがあります。

 

それからとても印象深く、今でも忘れられない出来事もあります。

それはアメリカにいるときに親しくしていたことがあるお坊さんが、まだまだこれからというときに亡くなって、葬儀に急いで駆けつけたときのことです。すでに葬儀も終わり、暗くなった寺院には人もまばらで、友人のご遺体が静かに中央に安置されていました。

最後のお別れと近づいてみますと、遺体の周囲の空間が大きく揺るがされているようなとても大きな揺らぎを感じたのです。地震かと思ったほどです。

こ事情があって荼毘に付すのができないでいたのですが、亡くなってからすでに数日が経っていたのです。なんと何日間もこうして大きく揺らいでいることがあるのかと驚いたことがありました。小さなお子さんをのこし逝ってしまうことが、とてもつらかったにちがいありません。

 

アメリカのオステオパシのドクターであるRobert Brooksbyも、彼の著Healing from Within Be Still And Know でこの揺らぎの現象について触れています。彼は魂が身体から解き放されるときの揺らぎとして述べています。

 

私には、個々の生命が大いなる生命に同化してゆくときの残響のようにも思えます。