Manual Medicine 大場 弘 Blog 

マニュアルメディスン(徒手医学療法)は全身をトータルに捉え身体の連関性を追求する医学です。
ここではマニュアルメディスンによる治療法や、症例などをご紹介していきたいと思います。

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場という考え方 その1
清水博先生の「場の劇場モデル」から学ぶ

人が集まると、そこには人と人との関係が重奏し合い、一つの生きた場が生まれます。一人ひとりが場に影響を与えつつ、全体の場もまた一人ひとりにリアルタイムで影響を与えています。まさに“今ここに”という実感が生まれます。清水博先生の『場の思想』から考えますと、遍在的な生命が今ここにきわだっていることかと思えます。大いなる自然の生命が私たちの個々の生命に融け込み、場という際だった生命を創り出すようです。

清水博先生は場について話されるときは、劇場を喩えにして説明されます。場とは、人それぞれが役割を背負って、即興劇を演じている劇場空間に喩えているのです。舞台の上では、多くの役者がそれぞれの役を即興的に演じています。場という舞台にはシナリオ(筋書き)はありません。役者それぞれは自分の位置づけを意識し、自らの役割を演じていきます。そして刻々と展開する全体の場が、役者をして新たな表現を創出させます。場は未来からやってきます。役者は場に誘導されるかのように自らの役を演じていくのです。そしてそこからまた新しい場面が展開されていくのです。

場とはこのように役者それぞれの存在を表現する空間となっています。自らの存在を表現するということは、個々の生命が表現されていることでもあります。

舞台は、個々の生命の表現が重奏する場でもあります。個々の生命を包む大きな生命の場となっている大きな表現空間です。このなかで一つ一つの生命が活かされ、それでいて、一つ一つの生命が表現空間である場に生命を与えています。まるで一つの生命が大きな生命場を包み、そして大きな生命に一つ一つの生命が包まれるという包み・包まれる関係になっています。

舞台に生き生きとした躍動感を与えているのは、実は役者の演技だけではありません。観客があっての舞台なのです。観客の熱い眼差しが舞台に活気を与えます。実際の劇場ではその舞台を観ている実際の観客がいるのですが、場という表現空間には劇場における観客はいないようで、実はいるのです。実に対して虚の観客がいるのです。ゴースト(幽霊)のような印象を持ってしまいますが、そんな怖い話ではないのです。ファンタジー(空想的)なものです。場においては、見えない観客によってあたかも観られているかのように、視線が注がれているのです。

それでは、場の即興劇を目撃している観客とはどんな存在なのでしょうか。

二十世紀初頭には偉大な思想家が多く生まれました。彼らにとっては、第二次世界大戦でなくなった同胞を弔うために、新たな思想・哲学を築き上げることが責務として負っていたのです。今ここにはいない死者が、彼らのまわりには観客としていたのです。気高く生きることとは、死者への弔いだったのです。

考えてみますと、戦争を体験した私の両親もそうした思いを背負っていたように思えます。掌を合わせる静かな祈りに、死者との対話があるのでしょう。
母親は、“仏様が見ているよ”と子どもを躾けていたように思います。こうして受け継がれる道徳、倫理という社会的な規範は、目に見えないままにもしっかりと行動を制していたのです。戦前の武士道も、日本人に受け継がれてきていた日本民族のスピリチュアリティ(精神性)であったわけです。

私たちに課せられている倫理や規範には、こうしたスピリチュアルな視線が見えない観客から注がれていることになるわけです。

場という表現空間には、鏡に映したときのような役者の視線の照らし合わせも起きています。場が舞台全体の雰囲気や空気を映しだしているのです。場は役者を拘束することもあるわけです。しかし本来の活き活きとした場は、役者の創造性を拘束するものであってはいけません。創造性の高い方向へ誘導する拘束でなくてはいけないのです。

人はどうしも世間体ということを気にしてしまいますが、これは個人が自らの心のうちにつくった拘束力を勝手に拡大して場に反映していることもあります。こうした反映は観客と言えるものかどうか疑問です。むしろ見えない本来の観客の視線(spirituality)を妨げているようです。こうした創造性を損なう束縛や呪縛には、その人の勝手な思いこみや偏見などいろいろあるわけです。場を曇らすこうした投影を、役者であるそれぞれ個人が正しく認識する必要があります。

私たちの生活の場ではさまざまな閉塞感が、個々に過大な精神的なストレスをもたらし、心身の変調をきたしています。患者さんの症状を家族という場の中で観てはじめて理解できることもあります。あるいは職場という場の中で患者さんがどのような心労を背負っているのか、そうした大きな視野でとらえなければならないことも少なくありません。

患者さん自身も、みずからそうした場の閉塞感を認識し、個々の役割を見直していくことから、新たな気づきを得て、自らが変わっていかなければ新たな場の転換にならないのかも知れません。私たち一人ひとりが役者として自らを表現していくことが即興劇という場を展開できるからです。

清水博先生の場の劇場モデルを参考に私たちの生活の場を見直すことで、新たな気づきを得ることができるかも知れません。

場について考えたこと その2
場の展開、時間の生成

時間とは、時計の針が刻む時間もあれば、人それぞれが感じる時の移ろいとしての主観的な時間があります。人はそれぞれが、自分の時間を生きている実感をもつことがたびたびである。ときにはあっという間の時間の経過であったり、ときにはおそろしく長い時間の経過であったりします。
ところが私たちがこうして社会の中でたがいに共有し合っている客観的な時間は、ある状態から次の状態へと今まさに発展する時間構造になっています。そこには原因があって結果が生まれるという因果律を基盤にした力学系の世界です。いわば振り子の運動が刻んでいく共通した時の経過です。

清水博先生の『場の思想』に立ち戻ってみます。
私たちが今ここにあるという自己の存在根拠は、身体のはたらきにあります。私という役者は身体をとおして舞台の上にあります。身体のはたらきによって表現される役者の生命が、身体を通じて舞台の生命に融け合い、刻々と変化する舞台の即興劇が生まれています。舞台で表現される意味は、役者と役者の直接的な関係から生まれますが、役者もまた舞台上の役割によって意味をもたされています。役者(自己)と舞台(場)が交互に誘導し合う展開が成り立つのです。ここに生成してくるのが、各人(自己)が役者としてあるドラマの展開(時間)なのです。各人が共に生きていることを実感するドラマです。それは自己の主観的な時間でもあるわけです。この人と場の関係によって存在の意味が創り出されることを清水博先生は考えてきました。各人は人生の意味を主体的に自分で創っていくものです。それは場によって大きく影響されることもあるわけです。運命づけられているように、未来が拓けるような感覚をもつこともあるかもしれません。清水博先生よく、「場は未来からやってくる」と話されます。各人の表現空間としての場が未来からやってくるというのです。舞台に役者が次から次へと現れてくるように、場は、人と人との出会いのなかで変わっていきます。即興劇としては、場の展開とともに役者の位置づけやはたらきも変わっていくのです。閉塞した場では新しい展開は期待できません。開かれた場にこそ時間の生成があるのです。

ところで、清水先生が「場は未来からやってくる」ということを話されるときに、サッカーを喩えに使います。サッカーにおける場の展開は、ボールが転がり、プレイヤーがボールを奪い合う展開として観ているのだろうと思います。確かにテレビでゲームを観ている感じでは、ボールの動きが場面を展開しているようにもとれます。でもプレイヤーからすれば、ゲームをつくっているのは彼ら自身であり、ボールをどこに展開するかは、プレイヤーが相手チームの選手と味方の選手の配置と動きをとらえた全体のモデルをもっていて、無意識のうちに流れを把握・予測しながらボールを蹴り出しているわけです。観客もまたゲームの展開、その先を、先を、観ようとしているのでしょう。なんと言ってもチームの監督は有利な展開となるように、プレイヤー一人ひとりのことを考えながら状況を把握しようとしているにちがいありません。

こうして考えますと、結構、私たちの意識・注意は先を行っていることが多いように思えます。無意識に一歩先を予測しながら動いているわけです。剣術の稽古で感じることは、相手の先(せん)をとる能力を養うところにあるように思えます。そのために、対峙する相手に対して、剣先で拍子(リズム)刻み、相手をその拍子に引き込んだ刹那に、その機に間髪を入れずに打って出るといったこともやるわけです。相手の拍子のさらに上に載って勝つわけです。したがって勝つ側としては、相手よりもさらに細かく時間を割っていなければなりません。主観的な時間のひと刻みは、強ければ強いほど細かく細かく時を刻んでいるのです。まばたきをしている暇もないわけですが、それでも熟達した方の太刀の打ち込みは、注意の間隙に入り込んできます。私たちがいくら注意を払っていても、その主観的な時間は、百分の何秒という間隔で途切れ途切れに、隙間ができているのでしょう。

脳神経科学の分野で、1980年代にかなり衝撃的な事実が明らかになりました。
米国の神経生理学者リベットが行った実験なのですが、自分が意図して、自分の人差し指を曲げようとするときに、「曲げよう」と意図した時刻、脳内に準備電位が生じる時刻、そして実際に人差し指の筋肉が動く時刻、という三つの時刻の前後関係を正確に測定したのです。その結果、の脳内の活動電位電の発生が最初に認められ、それから0.35秒遅れて自分の意図が意識に生じ、それから0.2秒ほど遅れて実際に指が曲がり始まることがわかったのです。
指を動かそうと思う前にすでに、無意識のところですでに脳は活動を始めていたということなのです。私たちの意識は、身体の動きを後追いしているようなものですが、意識が自分の意思で動かしているものと、完全に錯覚してしまっているのです。

身体的な動きは本来、無意識的だと思います。そして注意は、意識に先んじて進んでいるのだと思います。
これは剣術の稽古など、なにかスポーツをやっている人にはわかると思います。動きが意識的になると、ちぐはぐなものになってしまい、相手の動きとかみ合わず決してうまくいくことはないのです。もちろん技術は意識によって修正を積み重ねていくことで技を習得し、身体が勝手に動くようになるわけですが、それにいたるまではどうしても動きが意識的で自然ではありません。剣術の型稽古では、気の流れにのれないという感覚なのです。相手との気のつながりがあり、その流れにのって自然と動くことができたときに充実感があるのです。
気とは、身体的なコミュニケーションであり、身体を通しての無意識の志向的な注意のつながりがあるように思えます。息の遣いかたが気を充実させますので、剣術や居合では注意が途切れないような呼吸のあり方、息の遣い方がだいじになるのでしょう。


いろいろと話がとびましたが、場についてここでまた考えてみますと・・
場とは、言葉だけでなく、身体を媒介にした生命のコミュニケーションによって展開する即興劇とみなすことができるのでしょう。場とは身体の延長にありそうです。

そして私たちの現象的な時間とは、意識的な意図に先立ってすでに交わっている身体的なコミュニケーションの場において生成しているのでしょう。
場という考え方 その3
鏡の照らし合い

『鏡の照らし合い』という言葉の響きに惹き付けられていましたら、いろんなところで鏡の照らし合わせのようなことが起こっていることに気づかされています。今回はその導入です。

最初にこの言葉を聞いたのは、2006年(平成18年)の夏の頃からであったように思えます。清水先生は生命科学者として科学と宗教の架け橋をめざし仏教を深く研究され、場の思想によって仏教の智慧(宗教的叡智)を私達にわかりやすく語り始めたころでした。

清水博先生は、地球という大きな生命圏は一つの大いなる生命に満ちあふれているとし、この遍在する大いなる生命は地球上のあらゆる生命体にあまねく宿っているという二重生命を中心的な考え方に据えています。

生命の誕生から40億年ともいわれ、想像を絶する長い年月を経て多種多様な生き物が生まれてきましたが、個々の生命体は地球を身体に喩えるといわば一個一個の細胞にあたると話されています。私たちの身体が細胞の生だけでなく、死によっても支えられていることを考えると、地球上の生命圏においても多種多様な生き物の限りない生と死のドラマが繰り広げられてきたわけです。この無数の生命のドラマは、時間を超え空間を越え、延々と繰り広げられてきていることを、清水博先生は場の研究所の勉強会で話されています。

時空を超えた目に見えないネットワークのなかで生命の在りようが多彩に開花し、様々なかたちで生命のドラマが延々と繰り広げられてきました。まさに大いなる生命なる存在が、個々にしかも多様なひろがりをもって深化し続けてきたのです。地球上のあらゆる生き物は地球という生命圏としての大いなる生命体のいわば一つひとつの細胞にあたります。清水博先生は、生命の進化ならぬ生命深化このことを『縁の海の深化』、『共存在の深化』と表現されているのです。なんとも意味深い魅惑的な表現でしょうか。(清水博・場の研究所勉強会にて)

ひるがえって身体を考えてみれば、60兆にもおよぶとされる個々の細胞にとって、身体は一つの統合された大いなる生命体です。静かな水面であればどこにでも月が映しだされるように、ひとつ一つの細胞にも統合された全身が映しだされているようなことがあるのかも知れないという印象をもちました。

『鏡の照らし合わせ』ということがテーマとして取り上げられるようになったのは、ある浄土真宗のご住職が機関誌の中で『仏のはたらきを映す場所』という題で書かれていたことに注目されてからのようです。それは、親鸞の教えのなかにある「弥陀如来のはたらきは世界に満ち満ちていて、それは人間の身体に及び心に及ぶ」という教えであります。

清水博先生はこれに続いて次のように述べています。
「場の状態はその場にいる人々の心に映るものです。人々の心の中心には場の状態を映す『鏡』があるのです。だからどんな場にいるかによって心の鏡に映るものが変わります。そのことが心の状態は場に依存して変わるという理由です。」

人の心の鏡に場が映しだされている。
場はまたそれぞれの人の心を映しだしている。
心の鏡と、場という鏡がたがいに照らし合っている。
遍在的な大いなる生命と個々の生命はたがいに照らし合っている、ということになるわけです。
そして、小さな生命のできごとは地球という大きな生命に反映することになり、逆にまた地球の出来事はすべての生命に映しだされることになるのです。

ひるがえって、人間の身体の60兆にもおよぶ細胞一つ一つにも、統合された全身の場が映しだされているとみなすことができるかも知れないのです。

一つ一つの細胞が全身を映しだしているという場の構造を考えてみますと、ライプニッツのモナドという言葉が思い出されます。もっとも、とても難しい哲学のことなので漠然とした感覚的な理解に過ぎないのですが・・

ライプニッツのモナドロジーから有名なフレーズです。あの数学の微積分法をつくりだしたとは思えない神秘的なモナドを表象しています。
「物質のどの部分も、草木の生い茂った庭園か、魚のいっぱい泳いでいる池のようなものではあるまいか。しかも、その植物の一本の枝、その動物の一個の肢体、そこに流れている液体の一滴のしたたりが、これまたおなじような庭であり、池なのである。
庭の草木のあいだにはさまれた地面や空気、池の魚のあいだによどんでいる水、これらは植物でも魚でもないが、じつはやはり植物や魚を含んでいる。たいていは、あまりにも微細なので、われわれにの目にはわからないだけである。
だから、宇宙には、荒廃のただずまいも、不毛のしるしも、死の影もまったくない。混沌も混乱もない。そう見えるのは、うわべだけである。いくらか離れて眺めてみると、池の魚を一匹一匹見分けることができなくても、魚のむれのうようよした動きだけ、要するにそのうようよだけが、目に映るようなものであろう。」

「一にして多を表出する」というライプニッツのモナドの概念は、意識のあり方を示しているように思えます。

精神活動としての意識が、どのようなことに注意を向けるかによって実に多彩な世界が現れてくるのです。私たちには意識という一つに統合された状態があるわけですが、意識の向け方によって実にさまざまな世界を見ることができるわけです。

意識とは何かと問えば・・・
いわばテレビのようなモニター画面のようなものかも知れません。チャンネルの切り替えによってさまざまなものが映しだされるわけですから、意識の持って行き方によって世界がさまざまに映しだされます。

モニターの画面と喩えることよりも、「モナドは鏡である」というライプニッツの言葉の方がまさにそのままです。一にして多を表出するのです。

一つ一つの細胞にも原初的な意識といえるものがあるでしょう。受精卵が数限りなく分裂を繰り返してこうして複雑な身体を形づくってきたわけですから、細胞一つ一つに課せられたそれぞれのはたらきがあるわけです。それは全体に奉仕する原初的な意識すなわちモナドです。澄み切った鏡に自然の摂理を映しているように思えます。

私たちの一人ひとりの心もまたこうした鏡のようでもあります。
清水博先生は、澄み切った心の鏡を大いなる生命に向けて生きていくことの大切さを説いているのです。

心の鏡の向け方によって、大いなる生命のはたらきが私たちの身に現れると説くわけです。人間は大いなる生命のはたらきの「場」のなかに置かれ、大いなる生命のはたらきを映す「場所」だというのです。数十億年もの長い間、個々の生命を生みだしてきた大いなる生命が、一人ひとりの心の中に映り、自己中心的な心のはたらきが内側から変わって、大いなる生命の深化に向かって生きることを説いているのです。(清水博・場の研究所勉強会より)
場について その4
 

理に適うとは

 

剣術を始めてすでに6年になるかと思います。

きっかけは清水博先生との出会いからです。清水博先生と柳生延春先生(柳生新陰流兵法21世宗家)が対談されている「生命知としての場の論理−柳生新陰流に見る共創の理」を読みまして、清水先生に直接お話しをいただくだけでなく、身体で感じ取ることもあろうかと思いまして始めたのです。実際に剣術の世界に入ってみますと、その魅力にすっかりとりこになりまして、はやくも6年の月日が経ってしまいました。

清水博先生は生命科学者としての経歴から、生命活動にはリアルタイムで情報が創出されていることに注目されていました。生命場が情報を生み出すという「生命の知」を、柳生新陰流の活人剣にみようとしたと思うのです。

 

剣聖と呼ばれるような剣術の名手達は、殺人のために斬り合いをおこなってきたのではないと思うのです。生死を賭けた刃の交わりに絶対的な永遠を求めたのだと思います。生死を超えたところでの永遠性に自覚的に没入せんとしたのだと思うのです。この永遠性こそが、清水博先生が説く「場の思想」の核心である「遍在的な生命」ではないのかと、剣術を始めたころに思っていたことです。

 

最近では、柳生新陰流兵法の本質は相手に十分に斬らすことができる不動の心、大所高所の心のあり方にあるように感じています。剣術では「位(くらい)を高く」という言い方をします。しかし、ただ待っていたのでは、すでに負けています。心は先(せん)になければなりません。心が先にあるといっても、あれこれと予測したところで受けにあっても勝ちは得られません。何が起こるかわからない、予測できない世界が現実の世界です。それには即興的に応じることができる新たな創造がなければならないのです。

 

私は残念ながら、ご高齢になられていました21世宗家柳生延春先生に稽古をつけてもらえませんでしたが、「“さあ、いらっしゃい”という気持ちですよ」とよく言われていました。対峙する相手に“さあ、いらっしゃい”と構える心持ち、そして相手に十分に斬らせ、バシッと相手の刀の上に自らの刀を載せて勝つ。身体感覚的には全身が一つの刀になっていて、振りかざした刀は刃になって相手の刀に載る感覚なのですが、なんとなく少しずつわかってきたような・・・。

 

今の私はなぜか口伝書とか古い文献を読もうという気が起こらないのですが、ただ自分自身で感じたことだけで、このように柳生新陰流を語っていいものかどうか思い悩むところです。まあ未熟な者の戯言と一笑いただければと願っています。

 

私が稽古をし始めたころ、柳生延春先生は月に12度、東京の稽古を見に来ていただいておりました。そのころはだれも直接師事を仰ぐことはなかったのですが、あるとき実力のある若手先輩が「三学圓の太刀」のなかの斬釘截鉄という技をお願いしたのです。古い先輩は苦虫をかみつぶしたような表情でしたが、私は一生に一度だけ、柳生延春先生の技を間近に見ることができた機会になったのです。そのときの印象は、使太刀の若い先輩が中段から頭上に振りかざして近づいてゆく刀の描く円よりも、さらに大きな軌跡を描くような延春先生のゆったりとした刀の動きは、転(まろぼし)の構えからすでに使太刀の軌跡の上に明らかに載っているように見えました。何度やっても、本来勝つべき使太刀はいっこうに勝ちを得ることができなかったのです。使太刀は、延春先生の描く大きなリズムに最初から飲み込まれていたような印象をもったのです。

 

まさに「位の高さ」という表現が柳生新陰流の本質のように感じています。

 

稽古ではこうした位の高さを身につけることが大事なことと実感しているのです。構えの段階から相手の刀の上に載る心構えができた感覚があるとき、こんな私でも勝ちを得ることができることを、今ようやく自分自身で体験しつつあります。

 

ところで頭でわかっていても、いつもできるとは限りません。同じ繰り返しのように見えても、今ここにある現実は唯一回かぎりです。毎回、毎回ちがった現実なので、うまくいくときもあれば、自らを見失っていることも多いのです。

対峙する相手と一緒につくりだしている場、その即興的な自然な流れにのっておこなうことができれば、なにも考える必要はないのですが・・・

 

人間は二足歩行を始めたことで、獣から人間として独自の歩みが始まりました。四つ脚であれば、頭が先にただ突っ込んでいくか、尻尾をまいて逃げるかのいずれかなのです。しかし人間は直立姿勢をとったために複雑になりました。動物的には頭が先、手が先に動こうとします。しかしそれではバランスが崩れやすく、剣術で言えば全身で斬るという一つの動作にはなりません。

 

どうしても腕に力が入りすぎ、しかも全身が不安定で、全身で一つに斬るという動作になっていないと、新しい宗家22世柳生耕一先生から何度も指摘を受けていました。もう一度基礎からやりなおしなさいということで、昨年の暮れから月に一度、名古屋に出かけて指導を受けてきました。正しい理に適った動きを会得するために、剣術による身体的な感覚と、合理的な身体の運用について、この一年あれこれとやってきたわけです。

 

四つ脚の獣から直立歩行に進化した人間には、新たな創造が課せられているわけです。人間は、自然の法則に従った理に適った動きを創造していかなければならないわけです。ここで最初に考えられることは、全身が一つになって動けるためには、身体の重心を中心に移動できることです。ハラを中心に動きなさいという武道の共通した教えは、このことを言っているわけです。剣術でも刀を腕で動かす前に、身体の中心が先に動いていなければならないのです。頭で動こうとすると手が先に動きますので、頭に考えが生じる前にすでに身体中心を動かすはたらきが作動していなければならないのです。

 

そして一つ遅れて頭上にある刀の切っ先を、自然の落下に任せてストンと斬ることになります。このとき全身の移動によって踏み出された足芯の着地と同時に斬り通すゆったりと安定した動作とならなければならないのです。刀が先であっても、足が先であってもだめなのだと、柳生耕一先生が厳しく言われるのです。これまで東京で5年にわたって稽古をしてきたのですが、まったくこうした動作にいたっていなかったのです。

今月、名古屋に行って、ある方の独り稽古を拝見していて、ようやく合点がいくところがありました。「一見は百聞に如かず」でした。今の私のレベルで到達すべき模範を示されたような気がします。

 

自然の理を活かす第二のポイントは、刀を手で振り落とす意識があってはいけない、ということになるのでしょう。切っ先が自然と落下できるように、左手の小指側だけを絞るような動作があるだけで十分なわけです。余分な力が腕にはいると、太刀筋が乱れてしまいます。自然の落下に任せる以上のことは、いくらがんばっても私には到底できそうにないのです。ただ自然に任せることさえ、心の乱れによって損なわれてしまうのです。

 

自分の身体の正中を、スッとまっすぐに落下する刃の軌跡、そこにこそ冴えた鋭い美しさが感じられるのです。まさに自然の為せるわざです。

 

理に適った動きとは、自然の理と調和した人間特有の身体運動の創造ということになるのでしょう。

生命のブループリント 1
見えない設計図

 

生命体がかたちづくられてゆく胚発生は、まことに不思議な現象です。

 

排卵そして受精と、新しい生命の始まりは、分割を繰り返す細胞の集塊となり、これが大きな腔を抱えた球に変わり、子宮内膜に着床し胚盤となります。

そして、受精後第三週目に入り重要な変化が現れます。胚盤に縦方向で原始線条primitive streakと呼ばれる線がスッと現れるのです。まるで、フッと生命の息吹を吹き込まれるかのようです。

 

ここから多くの新生の細胞が造られ、頭方部の分化が先に始まり尾方部にひろがってゆきます。これから身体を構成してゆく各パーツが形成されるのです。

最初はペンシルの先くらいの小さなディスク(盤)から、新生細胞の増殖により円い胚子となり、系統発生を繰り返すかのように、さまざまな変態を経て、ヒトの形を現してゆくことになるのです。

新しく造られた細胞のうち頭方へ移動した細胞から脊索が形成され、脊柱形成のはじまりとなります。また、新生細胞の前方(頭側方向)への移動による圧力によって端が屈曲し、前方域で心臓形成板が生じ始めます。

 

考えてみるととても神秘的に思えてきます。

突如、中心線が現れ、上層と下層の間に新生細胞をどんどん流し込み、消化器系のはじまりとなる原腸形成gastrulationが始めてゆくのです。原腸形成は生物の形づくりの根幹となる生命現象と言えるでしょう。

 

原腸形成は単に腸を形成するための細胞運動ではなく、そのダイナミックで協調した細胞運動によって三胚葉をその後の形態形成のために正しく配置させ、球形の受精卵を頭尾軸に伸長した形態へと導くためのきわめて重要なできごとになるのです。

 

この細胞運動は収斂と伸長という細胞運動からなることが知られています。胚の側方(左右)から細胞が正中線に向かって収斂し,左右からの細胞が互いに挿入し合うことが前方に向かって伸長する原動力となっています。

 

これらの細胞運動はどのように制御されているのか、細胞自律的なプログラムなのか、細胞外からの刺激によるものなのか、まだ解明されていません。

最近、これらの細胞運動の分子機構が少しずつですが解明されつつあるようです。

「原腸形成運動は、細胞に組み込まれた自律的プログラムと言うよりはむしろ、細胞外シグナルを受けて、それに応答した細胞が正中線に向かって移動する運動であることがわかってきた」(基礎生物学研究所 形態形成部門)とあります。

 

あるシグナルを受けて自己組織化してゆく生命現象をここに顕著にみる思いがする。まさに清水博先生が「生命を捉えなおす」(中公新書)で語っているように、生命場における各細胞の動的協働性がはたらいており、そこにはリズムを介した秩序形成が起きているような印象をもちます。

 

胚盤の原始線条からの新生細胞の移動の流れをみますと、ちょうど身体呼吸という全身の呼吸運動のしくみがその起源になっているように思えてきます。

身体呼吸運動が生じると、縦の呼吸軸が生まれたかのような印象をもちますが、身体の矢状軸に、縦の呼吸運動が始まるのです。神秘的ですが、原初的な生命波動としての生命の息吹Breath of Lifeとして感じてしまうのです。

次回は、形態形成を引き起こしてゆくシグナルについて、宇宙的な規模から原子レベルにいたるまで、自然界を貫ぬく見えない設計図について考えてみます。

Blueprint 2
Global gravitational background field



積ん読となったままの、アマゾンの案内を見て買っておいた本にざっと目を通してみました。

 

Cranio-Sacral-SELF-Wavesという本ですが、ドイツの科学者が書いています。

オステオパシの分野である頭蓋療法から始まる頭蓋仙骨療法に関して、波動リズムというマクロからミクロの世界までフラクタルに現れるパターンについて独自の見解を紹介しています。

 

私が始めた身体呼吸療法もまた起源はDr.サザランドにあるのですが、世界でさまざまなかたちで発展しているいわば波動療法を貫く原理について科学者の目で説いています。

 

宇宙的な空間でみますと私たちの地球が属している銀河系レベルで振動するマクロな波動から、物質の根源的な粒子における振動にいたるミクロな世界まで、無限に振動数の波動が存在しているようですが・・・、無限に連続して移行するわけではないようです。不連続なかたちでそれぞれ固有の振動数の帯域があるようなのです。

 

昔、高校の教科書で習ったように、原子から発せられるスペクトルは異なった波長(振動数)が分散して出てきていることを意味していました。原子をとりまく電子の波が、層状の軌道で存在しているのですが、原子の持つエネルギーは段階的に分離して存在しているのです。このようなミクロな世界のエネルギー準位のかたちは、宇宙的なレベルでも不連続なエネルギーの階層性をもっているのです。

 

物質も究極的には振動するエネルギーですから、それぞれ固有の帯域で振動する波動でもあるわけです。したがって遺伝子もまた、それ固有の振動する波動で表現できることになります。

 

ちょうど私たちがラジオの周波数を合わしてそれぞれのラジオ局の放送を聞くように、段階的にある帯域でさまざまな音楽が流れ出してくるようなものです。

 

さてここで紹介する本の冒頭では、銀河系のマクロの世界から原子のレベルまで、対数的に変換し配列された質量や振動数の図表が描かれています。

 

銀河系と原子の世界では、スケールがまったく違います。
かたや天文学的なスケール、かたや直接うかがい知ることのできないミクロな世界です。

 

こうした桁違いの世界を一つの図表で示すとなると、数学的な変換が必要です。その方法が対数ということになります。天文学的な数字の桁を小さな値に転換することができますし、ミクロな世界は負の数で示すことができるわけです。

たとえば、億、兆、京と続き、垓という100000000000000000000となりますと、私たちの通常の感覚で一見してとらえることはできません。そこで、これを1020乗として、10を底とする冪(べき)20の値で表す対数で示すことができます。

 

物質は安定したエネルギーにありますので、あらゆる物質の重さを冪の値で並べてみますと、不連続な間隔で物体が存在することが分かるというのです。別の言い方をすれば、それ以外の値では物質も生命も存在することができないということになります。ある決まった振動数でのみこの世に存在するかたちが決まるということになります。

 

自然界の不思議な定数eに則り自然対数で示すこともできるわけです。

 

こうした数学的な表現で、宇宙から物質の究極的な世界まで、それらの振動数をみてゆきますと、限りない波動がこの空間を満たしていることになります。そして常に振動し変動していますので、時間が生じているわけです。著者はGlobal gravitational background fieldと呼んでいます。

 

私たちの環境も、また私たちの身体もまたさまざまに振動が波打つGlobal gravitational background fieldに融け込んでいるわけです。

 

まさにこれこそが、生命のかたちをなす見えない設計図となっているという主張なわけです。

Global gravitational background fieldに訳をつけるとなると、ちょっと困難ですので、場と言わしてもらいます。
場が波動という時空間的な設計図をもっていると理解できそうです。

 

次回は、身体の触感できる波動について考察してみます。

Blueprint 3
 

この週末は、日本カイロプラクティック徒手医学会の学術大会へ出席してきました。今回は日曜だけの参加でしたが、とても収穫がありました。やはり学会活動は良いものです。全国から懐かしく親しみを感じる先生にお会いできたことも、なにかしぜんに心温まる思いです。スタッフのみなさんには感謝です。

 

今回の木更津高専での学会では、私の臨床にとってヒントになるホットな話題がいろいろありました。ここで熱いうちに考察を深めたいところなのですが、まだ、「見えない設計図」と題した内容をまとめていないのでこちらを優先します。

 

マクロからミクロな世界まで、自然界には不連続ですが固有の振動帯域の波動があるということでした。私たちの身体レベルでみますと、呼吸、心臓の拍動、大脳皮質の周期的な脳波、血行動態など、実に様々なリズム的な活動がそれぞれの周期的な帯域で息づいています。

 

Cranio-Sacral-SELF-Waves』を開いてみますと、詳しい数学的な処理はわかりませんが、自然数eを定数に波動の重なりがあるようです。異なった周期的な波がいくつか重なっているように見えます。大きな波動のうねりの中にまた第2の波動が入り、その中にまた第3の波が入るといった、マトリョーシカ人形のような入り子構造になっています。大きな図柄の微細な一部を拡大してゆくと同じ図柄の構造があらわれ、さらに拡大してゆくと次々に同じ様式があらわれるというフラクタルになっているようです。

 

私たちの感覚でとらえられる波動はごく限られた帯域の波動です。私たちの感覚をベースにした事象のみが直接的に知覚されています。

それ以外の宇宙的なマクロの波動や、ミクロの世界の振動は、生で直接的に知覚することはできません。なにかしらの科学の粋を集積した観測器機でそうした世界を垣間見ています。

 

私たちの生の感覚で、Global gravitational background fieldに振動する宇宙の波動を知覚することができるのだろうかと疑問がわいてきました。

 

身体のリズム性に注目した図では、ベースとなる波と位相のずれたシャドー波と呼んでいる波が描かれ、それらの各ノードにたいおうして身体のリズムが規則的に配列されています。身体の様々な活動が、ベース波かシャドウ-波の、それぞれ規則的な周期性の波動にのって息づいているようなのです。

 

さて私が臨床で扱っている身体呼吸運動に関連して考察してみたいと思います。

Dr.サザランドから継承された人達によって、いわゆるサザランド波以外にもいくつかのゆったりとした波が息づいていることがわかってきました。ミッドタイドと言われる約数十秒毎に増減する触感的な内圧変動、それにロングタイドと言われる一分半毎にゆったりとあらわれる潮のような動きがあるのです。したがって触診によってこうした波の重なりの内圧変動が感じ取ることができるのです。ただ私の見解では、こうした波の重なりを実感できるのは、身体呼吸が深まり、いわゆる内在的な呼吸から外界にひろがるような開いた身体呼吸になってからなのですが。

 

患者さんだけでなく施術者側に、心身ともに緊張感がありますと、たがいになにか息苦しさとまで言わないまでも、なにかしら互いにすっきりとしない場ができています。うまく呼吸が互いに融け込んでくると、いつかし呼吸が開いた感じになります。心が開くとよく言いますが、同様に、呼吸が開くと表現しているわけです。たいてい患者さんは眠りに入っているような、入っていないような不思議な感覚でいるようです。

 

呼吸が開き、宇宙の振動に身を任せている状態にあるのでしょう。

 

直接的にGlobal gravitational background fieldに振動する宇宙の波動を知覚できなくとも、身体はそれに共鳴できているのではないかと思えてきます。

 

私たちの感覚を超えて細胞レベルで共鳴してくる振動もあり、そうした自然の波動に細胞が隅々まで深く共鳴し合うことができれば、なにか本来のリズム性を細胞レベルで回復できそうな感じがしてくるのです。

 

臨床はそうしたことを確かめる実践的な場なのでしょう。

 

著者のOlaf Korpiun, PhDは、アプレジャーDOの頭蓋仙骨療法を学んだらしく、本の後半は彼の見解に基づいた施術の方法が書かれています。興味深い点は、身体波動の中心を発生学的な動きから体幹部の中心に持ってきているところです。この点についてまた折を見て考えてみます。