Manual Medicine 大場 弘 Blog 

マニュアルメディスン(徒手医学療法)は全身をトータルに捉え身体の連関性を追求する医学です。
ここではマニュアルメディスンによる治療法や、症例などをご紹介していきたいと思います。

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秘めたるもの
 私は田園地帯の小さな集落で育ちましたが、こうした田舎の集落には必ず社があり、なにか神秘的な場をつくっています。小さい頃よくこの小さな神社で遊びました。古びた社の板塀の隙間から中を覗き見したことを思い出します。薄暗い室内に慣れてくると、幕で覆われた中央の祭壇に視線を惹き付けられていました。このとき、ヴェールで覆われた向こうから、逆に見透かされるような不思議な感覚、怖れのようなもの感じて見ていたことを今になって思い出します。
 夜祭りのある日、裸電球で明るく照らされた神社の中、おそるおそる幕の向こうに近づいてみると、そこにあるのは丸い鏡を立てた置物、これを見た「なぁんだー」という思いなど懐かしく思い出されます。

 ただの鏡の置物に過ぎないものをヴェールで覆い隠し、秘めたるものとして演出する伝統的な神事を支えているのは、覆い隠された物ではなく、それに託した何か神秘的な人の心の有り様に思えます。自分の心の核を他の場所に映し、そこから照り返してくる無の一瞬に惹き付けられているのではないだろうかとも思えるのです。

 フロイトの精神分析を不朽のものとしたジャック・ラカンの興味深いエピソードが解説書でよく紹介されていますが、なにか通じるところがあると思います。

存在の欠如としての空無の焦点
 ヴェールの向こう側から呼びかけるもの、それはすでに消失した空無(「穴」)に過ぎないのではあるが、主体を支える定点としてあり続けている。われわれをそこに引きつけてやまない虚なる焦点は、ある対象から発せられる眼差しとしてわれわれを射抜く。
ラカンはこの欲望の対象=原因となる対象aについて、自らの体験を語っている。ある日、ブルターニュの海岸で小舟に乗って舟遊びに興じていた。その時、ラカンの目に波間で光を受けて眩しく光る一箇の缶が飛びこんできた。魅せられるように缶を見続けるラカンに、漁師は“あれはあんたのことなんか見ていないぜ”とからかった。ラカンは後に、“缶はそれでも見ていた”とこのエピソードを振り返っている。ラカンは光輝くの源を見ているつもりで、実はその輝きの空無に惹きつけられていたのであり、自分自身の意志とは無関係に有無を言わせぬ力で光の束に射抜かれていたのであると語っている。(ラカン、福原泰平、講談社)

精神分析における臨床の場
人が過去の私を語るとき、現にその語りを行っている私の存在が裡に潜んでいる。過去の記憶を想起しつつ話している主体は、自らの話を未来からやってくる物語へと構成しつつ、その裏に忍び込んでいる。このとき、「かつて生きていた私」の消去の上に、新しい私の出現を求めている。こうした話が出てくることが、精神分析においてたいへん意味あることとされ、「パロール(満ちた話)」と呼ばれている。
精神分析は、一つの消去の中に、私が私として在ることを、逆説的に、しかも疑いようもなく明らかに示すことであるという(精神分析の内景、岩波現代思想現代思想3. 79p)。
 私がかつて生きていたから、私がある。私の根源的な存在根拠となっている核、記憶にない赤ん坊のときの主体は、あたかもすっぽりと抜け落ちた穴のようなものであった。この穴を埋めるべく、何かで埋めようと欲動が急き立てられている。そこが私の存在が生まれた場所なら、私はその場所からまた生まれ変われる。しかし、私がそこの場所にそれとしてあると言明できる間もなく、私の存在はその言の内には見出されない。そこに現れた私はすでに消し去られている。私の主体はコトバとして思考として成り立たない場所に立つ。私がやってくる場所は、それが在りかけていて、在りそこねているような場所である(精神分析の内景、87p)。

 ラカンが語っていることは膨大でしかもきわめて難解なのですが、私が感じた印象をここで一言でまとめますと、言葉の世界で生きている私達は、遍在的な生命へとつながる無という私達の核となっているところへ、いつでも立ち帰る必要があるということだろうと思います。フロイトが古文調に綴った「そがありけむあたりに吾れ来たるべし」とはこのような意味として理解してもいいのではないでしょうか。
 私がおこなってきた身体呼吸療法は、身体の呼吸を開いてあげることです。身体の呼吸(海の中の潮のような律動)を通して、個体の生命を遍在的な生命に開いてあげることかと考えています。これは、ラカンのエピソードを参考にすると、人間の核となっている無を射抜くことかとも思うのです。

 フランスの精神分析が日本人にわかるはずがないと言ったフランス人の先生がいたそうですが、とんでもない話です。東洋的な自然観に相通じていると思います。歎異抄の説かれている、「自然と一体になって自己が放下されるとき、阿弥陀仏の方から、救いがやって来る」ことを引用して比較しています(二宮一成、ラカンの精神分析講談社現代新書136p)
 また、清水博先生が場の研究所勉強会で、『鏡の照らし合わせ』ということがテーマでお話しされたことがあります。ある浄土真宗のご住職が機関誌の中で「仏のはたらきを映す場所」という題で、「弥陀如来のはたらきは世界に満ち満ちていて、それは人間の身体に及び、心に及ぶ」と親鸞の教えを引用して、清水博先生の場の思想にコメントされた記事だそうです。これにまた清水先生が応えて、人は皆それぞれ心に鏡を抱き、たがいに照らし合わせ、場は大きな鏡となって個と全体がたがいに映し合っていることを話されました。これは、60兆におよぶ細胞それぞれが、身体全体をたがいに映し合っていることも同様だと話されました。それ以来、私自身もこの『鏡の照らし合わせ』という言葉が妙に忘れられずにいます。


 最近の事例ですが、精神科の先生の紹介で来ていた解離性障害の女の子が良くなったようで、身体呼吸療法の大いなる可能性に自信づけられました。解離性障害とは、まさに異国に迷い込んだ孤児といった心境だろうと思うのです。本来、言葉を交わさなくとも通じ合えている人と人との間の温かさも安心感もなく、周囲が無機的な世界として彩られているのだろうと思うのです。
 しばらく治療に来てなかったので、役に立てなかったのだなと思っていたところ、1ヶ月ぶりでやってきました。ほとんどわからないくらい薄くではありましたが、なんとお化粧をしていたのです。なによりも学校にも行けるようになっていたのです。もちろん、身体呼吸療法のおかげかどうかわからないことなのですが、とにかくすばらしい出来事でした。

 私の考えている身体呼吸療法は理にかなっているかなと、思想・哲学に支えられて、その可能性を喜んだしだいです。

意識される世界  意識されない世界 (その1)
 『場の思想』の清水博先生と、これまでいろいろとやりとりがありまして、気づかされたことが少なくありません。

 デカルトのコギトと呼ばれている「我思う故に、我在り」からはじめます。今ここにこうして存在する私の根拠は、どこまでも疑っても疑いきれない、この考えている私にあるということなのですが・・・。

 このコギトを、「私の思考が私の存在を生み出している」と言い換えてみてはどうでしょうか。そうすると、私とは思考の産物になってしまいます。それでは、思考をもたらしているところの主体は何?と、なんだかわけがわからない話へとなっていきます。でもそこが大事なのです。

 そもそも思考が発達する前の赤ん坊は、我思うことなく存在しているとすれば、デカルトのコギトは妥当しないことになります。私の主体とはいったい何でしょうか。

 フロイトは、私達が思考し始める以前の体験は考えようがない、人間には決定的に欠如した空白があると考えました。「子供時代、そのものとしてはもう無い。それは夢や転移(他人への感情移入)によって、代理されている」というのです。物心がつく前にあった母親との一体感、そこにあった悦びはもうすでに失われて無いものです。それでも、その悦びとともにあった主体との出会いを求め、無意識に反復して現れてくる欲動を見いだしました。意識されない心のはたらき、無意識なる心の深層を発見したのです。夢は、失われた主体の代理として表れていることを発見したのです。

どうして「本来の主体」は失われたのでしょうか?
 言葉で思考する意識(私)がすべてであると錯覚して始めたからではないでしょうか。
「我思う故に、我在り」になってしまったからだと思うのです。

 言葉を使って思考している私のほかに、無意識の主体があるというフロイトの発見はたいへん意味深いものです。無意識の主体は、思考する私のなかに現れ出てくることができません。それで、夢や無意識の行為のなかにひょっこりとそれらしき姿を映し出すというのです。身体症状も実は無意識なる主体が反映した表れかも知れないのです。

私達治療家が用いている脚長差の変化をみる検査も、無意識なる主体が語り出す筋トーヌスの変化によるものなのでしょう。それは言葉のメッセージと裏腹の隠れたメッセージとして受けとめることができるかも知れません。身ぶりそぶりのように、非言語的なメッセージの一つとして、身体で表現されるサインとなるのでしょう。

ところで冒頭の清水博先生とのやりとりのことですが:
 無意識なる主体の「無」とは、言語のもたらした「有」の対極にある「無」として軽々しく私がメールで伝えてしまったことに指摘され、それは本来の「二重生命」を一重生命として扱ってしまっていると諭されたことなのです。意識される私と、無意識的な主体という二重的な存在を、言語的な世界だけの一重的捉え方をしてはいけないという注意であったように思えるのです。私達の個々の生命は、地球上の生命圏という大いなる生命、すなわち、どこにでも満ちあふれて遍在する生命の表れです。そうした意味で、個々の生命と遍在する生命の二重生命的である言っているのです。自分だけの命と考えるのは、一重的な生命の捉え方になるのです。

 0,1,2,3,・・・と数字を並べたときに、“0”をほかの数字と一緒に扱えるかという議論に喩えられるかも知れません。無(あるいは空)というならば、“0”から数字としての要素をなくさなければなりません。そこで斜線によって要素の意味を消すということを意味して、空集合では“φ”の記号を用いているのです。無は有と同じ次元にはありません。無は無限であり、豊饒なる遍在的な生命の源であり、有は言葉と思考によって分節化された世界なのです。

 フロイトの発見した原石を、輝く宝石のように磨き上げたとでも喩えられるようなラカンの精神分析は、人間の無意識の核にこの無限に通じる空無があるとみなしたのではないでしょうか。
意識される世界、意識されない世界 その2
無意識なる世界
 フロイトの考えた精神分析は、人間的な心にさえ、その始原に非人間的な外界の事物に帰属させてしまおうとするいわば科学の立場をめざしたと言われています(「精神分析を学ぶ人のために」世界思想社)。人間の心の深層に無機質的な“物”、すなわち根源的な他者性を考えていたのです。無意識に底知れぬ冷たい次元をみていたようなのです。精神を病む人達の心の世界を垣間見ていたわけですから、そうした見方になっても仕方がないことかも知れません。フロイトの欲動論は変遷を経て、生の欲動から死の欲動に決着するにいたっています。「あらゆる生命の目標は死」なのであり、生命はたえず生命以前の無機的安定性へと向かおうとする運動と考えたのです(「フロイト」岩波講座現代思想3、無意識の発見)。まるで、宇宙がブラックボックスへ引き込まれていくような冷厳な摂理のように響いてきます。

私達の臨床でも日常生活の中で苦悶している方が来られますが、はたして患者さんの心のうちは・・・
何が貴方を悩ましているのか、
あなたのうちにある、貴方自身が統御できない何物か、
貴方自身にとっても耐え難い非人間的な物、
貴方自身だけでなくあなたの家族、周囲の人達をも苦しめている、
その物とは・・・

心の深層に巣くう何物かが、突如として牙をむき、恐ろしい事件をも引き起こすのでしょうか。私のいる神田駅の隣、秋葉原でも凄惨な事件が起きてしまいました。

フロイトの精神分析は、人間の心の核に豊饒なる大いなる生命の源をみたいと思うこととは矛盾することを語っていたのでしょうか。「フロイトに帰れ」と唱えたラカンの精神分析はどのように読んだらいいのでしょうか。
 
「そがありけむあたりに吾れ来たるべし」このフロイトの言葉を、ラカンは「それがあったところ、そこに私は到来せねばならぬ」と読み直しました。この私とは自我ではありません。ラカンは、生命を無いものと観じつつ、その無いものとしての生命に到達したいという欲動が明らかに存在しているとみていたと思います。「それがあったところ、そこに私は到来せねばならぬ」と、ラカンが読み直した意味について次のような解説があります。

真に主体が語ることができるところは自我でなく、自我から排除された<それ>において在ろうとしている私(主体)である。主体は、私という自我にあるのでなく、みずからそれがそれであったところ(無を書き込まれた場所)に在ろうとしている私(主体)である。それは主体の核となっている無と書き込まれた場所から発せられる根源的な呼びかけに応えるべく、そこに向かうことを意味している無意識のはたらき(根源的な運動)である。したがって、自我の示すところに注目するのではなく、自我から逃れていく無意識の主体が在ろうとする語りに注目する必要がある。(「ラカン」福原泰平、講談社を参考に)


前回の話に戻りますが、
デカルトはコギトの閃きを受けたとき、次のような叫びをあげていたのではないでしょうか。たとえ私の心の何物かが、私の行為、知覚、思考を支配していようとも、私が今ここに見て感じている周囲の輝く世界を、何物も私から奪うことはできない!、「われ思うゆえに、われ在り」と今ここ宣言したい!と叫んでいたのではないでしょうか。

心からの奥から思わず出てきたコギト、それがでてきた瞬間、まさに私が主体と共にあったと言えるのかも知れないと思えるのです。そして語り継がれてきた「語られたコギト」には、それが発せられたときの生命の輝きは失われています。語られた言葉のなかみではなく、それを運んできた衝動にこそ生命の息吹があるように思えます。

ラカンは、欲動とは存在の核になんどなく接近しようとして出会い損ねて帰ってくる反復運動であると言っています。ちょうど穴の周囲をぐるりと回って行って帰ってくるようなものです。無意識の主体の消失の場所には決して到達できることではないのですが、たとえ到達できるとしてもそれを言葉に代えようとしたときには、その出会いは瞬く間に消失してしまいます。

それでも心の奥から発せられた言葉には、たとえ幻想として表出したものであっても、主体への接近そのものの軌跡として残響するように思えるのです。そして、ある時から止まったままの主観的な時間がまた動き出すかも知れない余韻を与えてくれるような気がします。

過去の外傷的な出来事、家庭のこと、職場のこと・・・
苦悩に閉じ込められたまま、新しい時間が刻まれずにいる心病む患者さんが語る言葉は、自らの語る言葉以上にさらに不安・怖れといった過剰なるものが張り付いて離れないように感じます。
そうした不安や怖れもなく、ただ淡々と吐露する言葉を聞くことができるようになったとき、たとえ抱えている問題がいかに深刻で解決不可能なことであったとしても、なにかしら安心感をもって聴くことができます。きっと患者さんの中で新しい時間が刻まれ始めているのかも知れません。

人が過去の私を語るとき、現にその語りを行っている私の存在が裡に潜んでいます。過去の記憶を想起しつつ話している主体は、自らの話を未来からやってくる物語へと構成しつつ、その裏に忍び込んでいるのです。このとき、「かつて生きていた私」の消去の上に、新しい私の出現を求めています。こうした話が出てくることが、精神分析においてたいへん意味あることとされ、「パロール(満ちた話)」と呼ばれています。精神分析は、一つの消去の中に、私が私として在ることを、逆説的に、しかも疑いようもなく明らかに示すことであるといいます(精神分析の内景、岩波現代思想3、79p)。

新たな自己を更新し続けるために、無に帰ろうとする欲動を失ってはいけないと、ラカンは語ったようなのです。

私はラカンの精神分析を、清水博先生のいう二重生命的に捉えたいと思うのですが、そうした私の思い(欲望)が、ただそのように反映しているだけなのでしょうか。ラカンの読み方も、読み手の欲望に反映してくるということなのでしょうか。
エス (それ It)
フロイトは心の構造を意識・前意識・無意識と分け、まったく意識にのぼることのない無意識なる深層の心があることを発見しました。その後、臨床経験と精神分析学的思索を積み重ねる中で、超自我・自我・イド(独語でエス)という心のはたらきを見いだしました。欲望を充足しようとするエス、欲望を抑圧しようとする超自我、そして両者を調停しようとする自我のせめぎ合いがあるというのです。精神の力動性をとらえていたわけです。

精神分析でいう力動とは、意識に上り、思いのままに欲望を実現しようとする力と、現実の状況や社会的道徳に合わせて欲望を抑圧する力、他者の欲望や社会規範との衝突を回避し、制裁を加えられないために欲望の質や量を調整する力との相互的な葛藤(対立する諸力のぶつかり合い)の事を意味します。
エス(ラテン語ではイド)とは、いわば激しく渦巻く心のエネルギーの領域で、全面的に無意識領域に属します。ありとあらゆる種類の“・・したい”、“・・が欲しい”という本能的な欲望、生理的な衝動が湧き上がっている部分で、快楽を求め、不快を避けるという快感原則に従う動物的な生きる力の源泉「そのもの(エス:英語でIt)」です。人間は心に欲求や衝動を感じると筋肉が緊張し、神経が興奮して、その欲求が満たされるまで苦痛や不快感をもちます。その欲求や衝動を即時的に満たし、不快や苦痛を避け快感や満足を得ようとするエスの力動傾向を快楽原則といいます。(『力動性心理学』についての解説から)

エスとは、赤ちゃんそのものの「主体」と言えるかも知れません。

赤ちゃんはお乳を欲しがるとき、飢えと渇きをおぼえ、身体的(生理的)に窮乏した状態です。赤ちゃんはこの生理的な緊張状態を不快な体験として泣き声を通じて訴えます。それを母親の乳房がいやしてくれるわけです。泣き声は母親だけでなく、自分自身も聴くわけですので、生理的・身体的な内部状況に、自らの泣き声を通して外的な現実としてもかぶさってきます。乳児の窮乏した身体状態が欲動を引き起こし、それが泣き声のなかで、母親のお乳がもたらされ解消されていきます。このように赤ちゃんの内部世界と外部世界は複雑にからみあっていきます。

エスとは、赤ちゃんの身体的な窮乏した状態にもありますが、母親のお乳が与えられ不快な緊張状態が解放された満足した状態でもあるわけです。

エスという主体は、身体状態に結びつく緊張状態を軽減させるために、行動に駆り立てる力動性となるというのです。私たちの日常生活では、エスが思いがけない行動をもたらすこともあるわけです。たとえば失錯行動のようなかたちでもあるわけです。どうしてこんなミスを繰り返すのかなと不思議に思ったら、自らのエスに問うてみる必要があるのかも知れません。

病気もまたエスがもたらしているところがあります。生理的緊張状態が、身体的な表現としてあらわれたものが病気かも知れません。病気が、エスの表現としてあるなら、病気に対しての考え方も変えていかなければならないでしょう。病気を解消することもまたエスの思いのままなのですから。エスにどんな満足(快)を与えられるか、そこに解決のめどがあるわけです。


つい最近、リュウーマチを患う若い女性がいらしました。リューマチという病気はこれまで私の中で無意識に避けてきていましたが、アメリカの先生が頭蓋療法はリューマチに向いていることを書いてあるのを見て、リューマチを避ける気持ちがなくなっていました。そんな折りに、母親と娘さんが交代で訪ねてきたわけです。結果はたいへん良いというのです。手指の関節の腫れは驚くほど退き、歩行もとても楽になり、これまで避けていた活動が増えてきていると話してくれました。
たまたまゲオルグ・グロテックの「エスの本」を読んでいるときで、彼女にエスの話をしながら、私が彼女のエスに問い掛けるように触れていると、なんとなく全体的に細かく緊張しふるえているような印象を持ちました。赤ちゃんが呼びかける母親もなく寂しくしているようだと言葉が出てしまいました。実は、私が得た印象は当たっていたようなのです。これから先、彼女のエスは私の語らいにどのように反応してくるのか、心地よい快の状態が続くことを願うばかりです。


参考資料
ゲオルグ・グロデック 「エスの本」 誠信書房
154p-
病気は人間の生体の生命表現の一種である。・・・
ぼくのように、病気も生体の表現の一種であると考える者は、もはや病気を眼の敵にはしません。つまり、そういう人間は病気と戦かおうとか治癒させようとか、そもそも治癒しようという気もないのです。
病気は患者の創造物であると認めた瞬間、ぼくには病気が、ある人の歩き方、しゃべり方、表情の動かし方、手の動き、その人の描くスケッチと同じような一つの特徴でしかないことがわかりました。その人の建てた家、結んだ契約、考えの辿り方と病気は同じようなものなのです。つまり病気は、人間を支配する力の無視し得ぬ象徴であって、ぼくは自分が適当と認めた場合、この力に力を及ぼそうと努力するわけです。こう考えると、病気は少しも異常なものではなく、病気になり、ぼくに診てもらいに来ているある人間の本性に規定された何かであることがわかります。ぼくたちが病気と呼びならわしているエスの創造物は、ときとしてその創造物自身、あるいはその周囲に望ましくない影響を及ぼすという点が、ほかのものと異なっているのです。・・・
ぼくはエスがぼくにとって、そしてその人自身にとって不愉快な行為をやっている理由は何なのかを、その人自身、エス自体に尋ねるのです。その人のエスが、こんなふうにうるさく言われるのはもうたくさんだと思い、やり方を変えるか、あるいは自分の被造物である患者に働きかけてぼくから遠ざかるまでそれを続けるのです。

エスとは気まぐれで予想もつかぬ、ハラハラさせられるものと言えましょう。

167-
一つお願いしたいことがあります。ぼくたちの語り合いのなかで、「精神的」と「器質的」を区別することはやめてください。これは、生命の何らかの特定の現象を理解しやすくするための言い回しであって、根本においてはこの二つは同じもので、同じ生命法則に従い、同じ生命過程を表しています。

172-
現在と子ども時代とのあいだに橋を架けることを学んだとき、ぼくたちは子どもであり、子どもでありつづけること、ぼくたちは抑圧しつづけていることを把握したとき、いかにきみの目が開かれるでしょう。ぼくたちが何かを抑圧しており、そしてその何かを決して消滅させることはできないからこそ、ぼくたちはある種の生命現象をつねに新たに招き寄せるよう強いられているのです。反復し反復することを強いられているのです。

364p-
我とはまったく我などというものではないのです。これはつねに変化し続ける形式なのでして、その形式を借りてエスがみずからを明らかにするのです。

赤ちゃんにも意識はあるのだけれど、単に赤ちゃんがそれを言葉で言い表せないだけなのではないかと考えています。いえそればかりか、胎児にもその種の意識はあるし、受精卵にも、無精卵にも、精子にもあると思うのです。このように考えていきますと、個々の細胞にもそのような個体意識があり、各組織、各器官、各器官系にもそれぞれ同じような意識があるはずだと思われます。言いかえると、すべての単体エスは、気が向けば、自分は個体だ、一つの人格だ、自我だと考えるようになり得るのです。・・・
人間の手にはそれ自身の自我があり、手は自分のしていることを知っている。それだけではなく、手は自分がそれを知っていることも知っているのだと。同じように腎臟細胞の一つひとつ、爪の細胞の一つひとつにも意識があり、意識的行動があり、おのおの自我意識があるのです。
医師として、ぼくがそう考えるのに充分な根拠を持ち得るケースに出会ってきました。

ある人間の自我がくちづけをしたがっているのに唇のほうがやりたくない場合、唇が負傷し、水疱ができ、ゆがんで、持主に対抗する唇自身の意志を誤解の余地のない形で、はっきりと表現するということもあります。・・・
また、女性の意識上の自我は心から妊娠を望み、そのために治療を受けたり手術を受けたりしているのに、子宮の方は頑固にそれを拒むということがあります。
人間の自我が不当なことを求めていると判断した場合、腎臓は任務を拒否します。それだけでなく、これら唇、胃、腎臓、ペニス、子宮の意識を、全体自我の意志に沿うように説得することができると、すべての敵対表現、すべての症状が消失するのです。

左脳・右脳
脳の神経科学から身体呼吸療法へ

大脳は左右の大脳半球が脳梁によって結びつけられています。この脳梁を切断し、分離された脳の研究から、左右の大脳半球に異なった特徴が見いだされました。左脳には言語に関わる領域が占めていることから言語的で、論理的、象徴的などの特徴が見いだされたとされています。左脳は合理的で分析的・論理的な思考を実現しているとまで言われています。一方、右脳は非言語的、視空間的な特徴が見いだされ、知覚的で全体的な情報処理に特化しているところから、右脳は直観的で創造的であるとまで言われるようになりました。また、右脳は全方向におよぶ空間性と注意性、それに情動性の機能が強調されています。すなわち右脳は、私たちをとりまく環境全域に注意をはらうレーダーのようでもあり、しかも感情にかかわっているということになります。感情はもともと生存のために外界の環境を評価する直観的なはたらきに由来していましたので、周囲の環境に注意をはらう空間性と密接に関連していたわけです。

また、脳の性差すなわち男と女での脳のはたらきに違いがあることはよく知られているところです。左脳と右脳は脳梁を通してやりとりをしていますが、女性は男性よりも脳梁が大きいため、そのぶん連絡が密です。たとえば女性はあっちこっちと話が飛びますが、男性が車を運転しているときやコンピュータに向かっているときなど、唐突に話かけられると、男性の立場からするとついイライラしてしまうものです。男性はなにかひとつのことに集中してしまうと、他のことはわずらわしくなるものです。男性は、女性と比較して、左右の脳の連絡がよくないために、ひとつに注意を集中せざるを得ないところがあります。

また、脳の成熟のしかたから左脳・右脳に違いがあるようです。言語野のある左脳の発達は2,3歳ころから進みますが、その前に右脳が先により発達しますので、ひょっとしたら赤ちゃんの主体は右脳に関連するのかも知れません。右脳で母親を探し求め始めているのでしょうか。
さらに飛躍すれば、左脳が言語的・分析的・論理的であるとしたら左脳は意識系とみなすことができるのでしょうか。また、右脳は全体的・具体的・直観的であるとするなら、右脳は無意識系ということになってしまうのでしょうか。

最近の脳科学の見解は、左脳・右脳というそれぞれに特化した精神機能を当てはめることは行き過ぎであるという反省が起こっています。精神機能は左脳と右脳の相互的なはたらきが統合されてのこと、と強調されてきています。

精神機能が脳を基盤におこっているという見解は常識的かも知れませんが、それでも精神機能と脳の機能はまったくイコールにして考えることはできません。あくまでも精神機能と、脳の活動状況と関連づけられているにすぎません。
私たちの思考における精神と物質の二元論的な障壁はのりこえられていません。鉄腕アトムのように、ロボット(機械)が心をもつことができるのかと考えさせられてしまいます。複雑な構造から機能が生じるように、複雑きわまりない脳の構造から心もまたその機能として生まれているのでしょうか。いいえ、そうではありません。機械が意識をもつことができるなど、考えようがありません。環境との相互作用によって、生物進化から心が生まれてきた事情もあるからです。それに、心は身体に宿る一方、身体は環境に属しています。心は脳のなかだけに閉じ込めて考えることはできないのです。

ここで哲学の領域に踏み込んでしまうと、話がどこへ行ってしまうかわかりませんので、私の臨床の立場からみえてくることを考えていきたいと思います。

全体的には日本人は優秀だといわれますが、天才的と思われるような人はそうそう身近には現れません。ところがアメリカでは、独創的で天才的なたいへん優れた人が実に多く、いろいろな分野でごく身近なところでもいます。Dr. Carrickという先生も天才的な先生で、カイロプラクティックの臨床において、いかんなくその能力を発揮しました。学問的なかたちではなく、臨床的な活動において彼の能力を見ることができました。とくに注目されるのは、意識を失っている脳障害の患者さんの治療にあたって、多くの患者さんを蘇生させたことのようです。彼はものを書く先生ではなく、早口で話しながら実際に患者さんを治療しながら講義をします。それを見て勉強させられたわけですが、正直言ってほとんど何も聞き取れませんでした。英語を母国語としている学生さんにしても、その内容はたいへん難しく、誰かが頑張ってテープを起こし彼の講義録を全巻まとめました。私の場合はそれを読みながら、ビデオを観て、カイロプラクティック神経学を勉強してきたわけです。

Dr. Carrickのカイロプラクティック神経学の大きな特徴の一つに、大脳半球の機能低下という考え方があります。たとえば左脳という片側の大脳半球が機能を低下するということが、一般によくあるというのです。もちろん、右脳の機能低下ということもあります。
大脳半球の機能低下があると、同側の身体半分で抑制がきかず、交感神経が亢進するなど、さまざまな影響が全身に生じます。こうした大脳半球機能低下による影響として表れる全身の兆候を調べ、機能低下した大脳半球を判断します。そして大脳の機能を高めるための刺激方法や刺激量を、いろいろと臨機応変に考え治療をおこなうことになります。簡単に言えば、身体を刺激して大脳を賦活させようとしているわけです。でも神経学全般に通じていませんと、なにを診てどう刺激するか即興的にやれることではありません。ましてやちょっと刺激量をまちがうと死んでしまうような脳障害の患者さんの治療となると、Dr. Carrickのようにいきません。

彼の大脳機能低下という考え方、その影響として表れる神経学的なしくみについては、臨床的におおいに参考になるところがあります。とくにめまいについては、こうしたカイロプラクティック神経学の理解が不可欠です。

左脳・右脳の話にもどりますが、カイロプラクティック神経学の立場から観て、やはり左脳・右脳にはやはり個性があるのではと思わざるを得ないところがあります。

私個人の見解としては、日常的なルーチンの仕事で疲労している人は、左脳が機能を低下しているようであり、感情的な問題をかかえ疲労している人は右脳が機能低下し、しかもそれにとどまらず左脳もまた疲労してしまっているような印象をもつにいたっています。

最近、鬱やパニックを訴える患者さんをみるようになって、一般的な左脳の機能低下よりも、右脳に強く異常感を感じることが多くなってきました。しかし右脳にだけ問題があるということではないのです。右脳も異常感をおぼえるひとつであるということです。

こうした心の問題、精神的な問題をかかえた患者さんでは、正中の身体呼吸を誘導することはなかなかたいへんです。なにか独特の異常感を帯びたかたまりが、全身でまだら模様に感じ取れ、異常に感じる脳内部の緊張感も質的になにか違います。

かろうじて下腹部から身体的な揺らぎをともなった正中の呼吸がかすかに現れ始めると、ようやく変化が起きていくようです。これまでのパターンがうち崩されていくようなきっかけになっていくようです。

ある女性の患者さんです。プライベートなことなので詳しくは紹介できませんが、心がたいへん病んでいる方です。最初の治療の後、2週間ほど辛い揺り動かしが起きてしまいました。頭痛のためほとんど起きていられないとメールがありました。初回は、初めての治療でしたので、お話しと正中の呼吸を通るようにしただけでしたが、本人にとってはたいへんきつかったようです。頭痛は考えることを拒否する心の叫びのひとつでしょうか。この女性は右脳の側頭部に著しい緊張がありました。そこには扁桃核がありますので、きっとたいへん辛い感情的な痕跡があるのでしょう。こんなに辛い思いをがまんすることもたいへんだと治療を継続することをためらっていましたが、紹介してくれた知人の強いアドバイスで、また治療を続けてみることになりました。三回目、四回目と、辛い揺り動かしがかなりなくなってきました。少し気持ちに余裕が出てきて、ポジティブに考えることもでえきたとメールがありました。子どもの夏休みの間、しばらく治療は休憩です。

身体呼吸療法におけるハラ呼吸とは新しく生まれ変わっていくための息吹なのだろうかとふと思ってしまいます。

ハラ呼吸が正中の呼吸となって脳内部へ波及する様相は決まっています。眉間の奥(たぶん前頭葉内側から前頭葉眼窩部と帯状回前部)に波及し、そしてブレグマへと開いていきます。心の問題、精神的な問題をかかえた患者さんには、辛い時期もありますが、ここまで誘導できるようになればきっと良い結果がでてくるはず、と思っているのですが・・。
左脳と・右脳 その2
ポジティブな脳・ネガティブな脳

脳の神経科学では、左脳はポジティブで、右脳はネガティブな様相をとるといわれています。左脳は正の情動に特化されていて、左脳の障害は正の情動の能力を減退させて、鬱状態を引き起こすことがよくみられるということです。また右脳に生じた障害は、たとえばヘラヘラと笑っている様子から不適切な悦びを表わしているようであり、右脳は負の情動に特化されているとみなされています。

前頭葉はとりわけ人間らしい心のはたらきと相関するところですが、感情のコントロールはその重要なはたらきとされています。左右の前頭葉に特徴的な違いがあり、右の前頭葉は映画の悲しいシーンや残酷な場面で活動が高まり、左の前頭葉は幸せな場面で活動が高まることが観察されています。

左右の前頭葉のはたらきが、どちらが高まりやすいかどうかで、右脳タイプ、左脳タイプに分けると、右脳タイプの幼児は母親が少しでも自分から離れると激しく泣き、傾向として引っ込みぎみで臆病ということです。これに対して、左脳タイプの幼児は積極的で物怖じしない傾向があるというのです。

こうした神経科学からの見解は、実は単純すぎるところがあるのです。単純であるというのは、脳の障害が特化された左脳・右脳の特徴を欠落させていると考えているところです。心理学の立場から心の力動性を考えたときに、障害の背景にあるメカニズムが、多くの場合に外見とは逆であることが指摘されます。脳に障害を負っている患者が不適切に幸福であるように見えるのは、負の情動を生み出すことができないからではなく、それに耐えることができないからかも知れない、とも考えるのです。本当は辛い悲しいことを心に抱いているのに、つとめて明るく振る舞っているということも、私たちがよく経験することでもあります。外見的に幸福そうであっても、鬱状態で苦しんでいるかも知れないわけです。

二つの異なった特性をもつ左脳と右脳、たがいが対立することも起こるのではないでしょうか。楽観的で前向きな左脳を戒めるように右脳がストップをかける、そんなはたらきがあるのではないでしょうか。あるいは暗く悲観的に沈んでいる右脳を、空元気な左脳が励ますといったこともあるのでしょう。

葛藤という心のせめぎあいが起こるのは、左脳と右脳がぶつかり合っているのかも知れません。夫婦の性格がたいてい異なっているように、そのために互いに励まし合いながらうまくいくこともあれば、互いに衝突してケンカになることもあり、メリットもデメリットもあるのでしょう。

Happyになりたい左脳、それを制する右脳のせめぎあい、疲労で左脳がダウンすると、右脳が優勢になってHappyな気持ちが抑えられてしまう。あるいは、感情的な緊張が続いて右脳が興奮し過ぎて不安が高まる、ということも考えられるかも知れません。


身体が良くなったと喜んでいるのもつかの間、また別の症状に気が集中して暗くなっている患者さん、良くなった喜びをエネルギーに替えたらいいのに思ってしまうことがたびたびです。せっかく訪れた幸福な出来事であっても、すぐにまた新たな将来の不安でかき消そうとする心の力動、これも左脳と右脳の不一致がはたらいてしまう効果なのでしょうか。

私も最近、この歳になって居合を始めましたが、人から観られるとつい上手くやらねばと気負いが先に立ち、それに緊張と不安をかき消すような心のはたらきもあって、みょうにこわばって無駄な力が出てしまいます。結局、みじめなものです。下手は当たりまで、今の自分を最高に表現することだけなのですが、どうも身も心も静寂さの中にしずめることができません。人の目、自分の目から離れることができない自分がいつもあります。こんな自分を無くすことができればと、剣術や居合を続けているのですが・・

部屋を片付けたと思っているのに片付けられない、宿題をすぐに済ましたいと考えているのに、ぎりぎりまでにならないと手にすることができないなど、日常的にもいろいろと相反する力動がはたらいているのがわかります。

私という存在は一つにまとまっているということは、ひょっとしたら錯覚で、いわば異なる二つの人格が同居しているようなことになるのかも知れません。

「われ思う故に、われ在り」とは、やっぱり簡単にいきそうにありません。
左脳と右脳 その3
心、脳、身体のかい離

今年の夏はとても暑かった。ところがこのところ曇りと雨の日が続き、あの暑く辛かった思いも遠のいてしまっています。涼しさのためによく眠れるようになって、夏の疲れがどっと出てきそうです。
このような天候のとき、患者さんの身体に触れていると、急な気温の変化が思いの外、身体にかなりの影響を与えていることがわかります。

ある男性の方で、これまで感じたことがないような身体呼吸運動の著しい減退がある患者さんが続いています。古典的な頭蓋療法のメカニズムがほとんど動いていない感触です。

仙骨から脊柱を通して頭蓋骨にいたる脊柱管には脊髄が、頭蓋腔内部には脳がはいっていますが、その一番外側の髄膜である硬膜は、中枢神経系(脳・脊髄)に統一されたリズミカルな運動をもたらす緊張と弛緩の力動性を伝達しています。古典的な頭蓋療法では、頭蓋底部が上下に弾力的に可動性をもつことから、頭蓋骨全体にあるデザインされたかたちで動きが生じるとされています。私が頭蓋療法を知って、最初に印象づけられたことは、鼻の奥、眉間の奥とでも言いましょうか、たぶん篩骨だと感じるのですが、この篩骨の動きがきわめて重要であると感じていました。鼻の奥からスッとなにか気のような感覚で通っていく感じがあったからです。こうした感触は、25年経った今でも、ますますその重要性を感じています。

頭蓋をふくめた骨格軸の動的な機構(第一次呼吸機序)がほとんどなくなっている方が続いてやってきましたので、なにか天候の影響があるのかと思ったのです。

こんな状態でだいじょうぶなの?と思わざるを得ないのですが、いわゆる不定愁訴や自律神経失調症とされる症状にとどまっています。このままの状態でいたら、やはり心配です。なんとか動きが出るように身体呼吸を誘導するのですが、なかなかたいへんです。全身が重く感じられ、内部からリズミカルな波動が湧き上がってきません。女性であれば甲状腺ホルモンの問題があるかも知れませんが、男性の場合となると・・・。ストレスと身体の冷えが大きな問題かも知れません。お風呂に入って温まることがない、シャワーだけと言います。たぶん夜は、裸で窓を開けて寝ているか、クーラーがかかっているのでしょう。

また別の若い男性は、上が90代、下が60代と血圧が低くなり、お腹も下痢気味で、鼻の奥の粘膜に粘着性が感じられ顔面骨の動きがかなり減退し、空気の流入はあっても気(エネルギー)が入っていっていかない状況でした。この男性は、灘校から東大へと、そして二年前にキャリアとなったのですが、官庁の陰湿な人間関係が彼の身心を虚にしてしまっているようです。

急な気温の変化は冷えをもたらし、身体の重だるさや、持病の悪化となるでしょう。こうした環境の影響は、身体は鋭敏にキャッチしていても、心は気づかずにいます。心と身体は意外にかけ離れていることを実感させられます。


ところで、先回の左脳と右脳の話で、心は一つなの?という疑問がわきあがっていました。その直後に偶然、左脳と右脳の異なった人格もつ女性の事例についての興味深い記述に出会えました。Neuropsychologia,という専門誌の1984年22(1)の論文を、坂野登先生が自著の「無意識の脳心理学」54-56pで紹介されています。ついでに論文の抄録をMedlineから参考までそのままコピーしておきました。

J.J. 31歳、女性、右利き
彼女は16歳の時に自分の二つの精神的あるいは情緒的な状態を意のままに切り替えられることを知ってから、そのことを学業的とか個人的なことで使ってきた。彼女が「わたし」と呼ぶ意識状態では、女性実業家として活躍し、計画・書き物・数学・チェスをやり、楽譜を読み、情報を得るために読書をし、その情緒は事業と結びついたもので、不機嫌な気分になったり議論し合うといったものである。この「わたし」という意識状態から、家庭生活では「それ」と呼ぶ意識状態に切り替わることで、ガーデニング、デザイン、スポーツ、音楽の演奏、楽しみのための読書をし、この意識状態での情緒は、安すらぎのためのものであって、友達と開放的なもの、性的な気分のものとしてあった。
「わたし」のときの意識は、まさに左脳の覚醒度合いが高まっている状態で、「それ」のときの意識は右脳の覚醒度合いが優位に高まっている状態であることが、脳波検査でのアルファ波の出現度合いや、作業能率検査などで確認できたと報告されている。
この事例から、大脳半球の活動が、左右それぞれ優位性をもって随意的に操作できる可能性があることを示した報告になっている。
Neuropsychologia. 1984;22(1):65-72.
Voluntary control of two lateralized conscious states: validation by electrical and behavioral studies.
Gott PS, Hughes EC, Whipple K.
A subject is described who can voluntarily select and hold either of two qualitatively different states of consciousness. Evidence is presented which confirmed differential left or right hemisphere dominance in each state. Asymmetries of EEG alpha and task performance scores indicated a state-dependent shift in functional lateralization. Evoked response studies showed directional changes in rate of interhemispheric transmission correlated with state-related hemisphere dominance. These findings demonstrated that capability for voluntary endogenous control of cerebral dominance under natural conditions.


上記のJ.J.は、自由に左脳・右脳を別々にクリアな集中度へと高めることができるという。そして、いわば異なった人格に自分を分けて仕事と家庭を別々に生活することができるという事例です。この事例を読んで、最初は驚きでもありましたが、よく考えてみたら、結構、みんな二面性をもっているところがあるのではと思ってしまいました。だれでも外面(そとづら)と内面(うちづら)があって、外ではとても明るく外向的なのに、家に帰ってくるとムスッとろくに言葉も交わさないといったことがあります。外面がいい人は、内面がよくないということが一般的です。こうした二面性は、左脳・右脳の性格によるのではないでしょうか。

大脳の働きは、左脳と右脳どちらかがいずれかがリーダーシップをとって、状況に応じて他方に優位にはたらいている可能性があります。

ただ、そうした脳の使い方を決めている何かしらの主体があるかも知れませんが、このこともたいへん興味深いところです。


それにしても人間という存在は、自然の素材からなる肉体、そして生命的な営みとしての身体、それに言語を媒介にした象徴的社会的関係と、なんと多次元的であることかと思い知らせられます。人間という多次元的な存在は、複眼的に見つめてこそ明らかになっていくのでしょう。
左脳・右脳 その4
大脳半球の側性

大脳は、左脳と右脳が脳梁によって結びつけられ、さまざまな精神機能がいとなまれますが、他方が優位に立って全体を執りしきることもあれば、あるいは左脳と右脳がそれぞれの特性を活かして仕事を分担し合い協働作業をおこなうこともあります。たとえば、文字を読むとき、文字のかたちを認識、文章の配列を読み取ることは右脳が担い、そしてその情報を基に左脳が語彙や文章の意味を理解するということがあるわけです。もしこのとき右脳が優位にたっているとしたら、書かれた文章に情緒的な気分を加味して左脳に伝えるかも知れません。行間にある書き手の気分や情緒をうまく読み取れる人は、右脳が優位にはたらいているのでしょう。ところが書かれた意味を杓子定規で読み取るだけなら左脳が優位かも知れません。ユーモラスなこともおもしろく伝わらないことになります。一つの文章が、読み手によって異なった風景になってしまう可能性があります。大脳の働き方によるわけです。
左右の大脳半球の間では複雑な情報のやりとりがあるわけですが、こうした大脳の働き方はかなり複雑であろうと推察できます。


左脳・右脳には機能的に優位に偏った働き方があります。右利きもその例です。こうした大脳半球の偏った優位性の傾向について、側性とでも訳されましょうかLateralizationという語が使われます。このLateralizationとhemisphericをキーワードにMedlineで論文を検索しますと、実に興味深い論文のアブストラクトが数多く出てきます。
たとえば、下記にコピーした論文の抄録は、身体呼吸療法にも深く関わる内容で実に興味深いものです。「大脳半球活動が超日周期リズムで交代している」という1993年の論文です。なんと、大脳半球の活動リズムが、左脳と右脳の優位性が覚醒時に100分をピークに、90分から200分の範囲に集中して交替しているというのです。しかも、なんと超日周期リズムは、鼻のサイクルと関係しているというのです。また、レム睡眠とノンレム睡眠のサイクルが大脳の側性と同期していることも観察されたそうです。

Int J Neurosci. 1993 Jun;70(3-4):285-98.
The ultradian rhythm of alternating cerebral hemispheric activity.
Shannahoff-Khalsa D.
Khalsa Foundation for Medical Science, Del Mar, California 92014-5708.

This review covers cognitive and electroencephalographic studies of the ultradian rhythm of alternating cerebral hemispheric activity found in humans and animals. This endogenous alternation of right and left dominance ranges in periodicity from about 25 to 300 min with peaks between 90-200 min during waking and around 100 min during sleep. Studies of lateralized EEG activity during sleep are reported as correlates of the REM-NREM sleep cycle. Studies of lateralized ultradian rhythms of EEG during wakefulness reveal a correlation between hemispheric dominance and the nasal cycle. The rhythm of cerebral dominance has also been identified with tests of lateralized cognitive performance using left and right hemisphere dependent tasks. Awakening from REM or NREM sleep is associated with different effects on left or right hemispheric dominance. This rhythm plays an important role in cognitive performance, memory processes, visual perception, levels of arousal and performance, mood, and individual and social behavior.


鼻のサイクルとはどうゆうことなのか興味深いところです。身体呼吸療法で観察している篩骨の動きと関係しているのでしょうか・・・

そこでまた、nasal cycleとLateralizationをキーワードで検索していますと、いくつかの興味深い論文が出てきました。

鼻孔が左右交互により大きく開きぐあいが変わるサイクルがあるということです。鼻孔の開きぐあいよりも空気の流入出の測定でみると、左利きの人はより強く左の鼻の呼吸に偏り、右利きの人は右の鼻に呼吸が偏る傾向がみられるとあります。(Nostril dominance: differences in nasal airflow and preferred handedness, Laterality. 2005 )

自閉症のこどもたちでは、まさに大脳半球の顕著な側性が認められているということです。利き手、利き目が左側で、鼻のサイクルもまた左が優位であるとする報告があります(Handedness, eyedness and nasal cycle in children with autism., Int J Dev Neurosci. 2007)。自閉症のこどもたちは、右脳に偏ったはたらきがあるということになるのでしょうか。ただ、サンプル数も37例とそんなに多くはありません。それに、偏った脳の側性によって自閉症が起きていると言っているわけではありません。自閉症には、人との交流と関係を築いていく能力に遅れがあるために、こうして右脳に偏った働き方となるのでしょう。

目が醒めている状態で、鼻のサイクルと同期して大脳半球の活動リズムが1.5〜3時間周期で交替しています。そうした自然のリズムにおいてそれぞれの大脳半球のはたらきが、言語的な空間的な能率にとてもよく関連しているという報告があります。片側の鼻孔をおさえて他方の鼻孔だけで呼吸を強いると、反対側の大脳半球の認知的な覚醒が高まるというのです(The effects of unilateral forced nostril breathing on cognition, Int J Neurosci. 1991)。

左鼻孔をおさえて右の鼻孔で呼吸をすれば、左脳が覚醒度を増すということになるのでしょうが、まさにヨガの呼吸法に通じるようでおもしろいものです。
強制的な片側での鼻の呼吸をしても能率はあがらなかったとした報告もありますが、さすがにそう簡単には能力が高まることでもないのでしょう。ヨガのように長いことやらないと結果はでてこないのでしょう。

片側の鼻で強く呼吸することは、自律神経系に大きな影響を与えることは確かなようです。酸素消費も増加し代謝も高まるそうです。血中のカテコールアミンの増減にもあらわれます。

下記にコピーした論文は、とてもエキサイティングなことが書かれています。この論文には、左脳は交感神経を亢進させ、右脳は副交感神経を亢進させるという言及もあり、鼻の呼吸の仕方で選択的に大脳半球を刺激し、結果的に自律神経系にさえ影響を与えることができると述べています。これはすごい発見です。

眼球を圧迫すると迷走神経(副交感神経)が刺激されることはよく知られています。なんと、右の鼻をおさえて左鼻孔で強く呼吸すると、眼内圧が4.5%高まるそうです。右鼻孔を閉じた左鼻孔での呼吸は、右脳を刺激しますが、それと同時に眼球圧迫と同じ効果として、迷走神経(副交感神経)が刺激されることになるのです。
逆に、左の鼻をおさえて右鼻孔で呼吸をすると、眼内圧が25%も顕著に低くなるというのです。左鼻孔を閉じた右鼻孔での呼吸は左脳を刺激し、交感神経の高まりをもたらすことになるわけです。

Graefes Arch Clin Exp Ophthalmol 1990;228(3):275.
Changes in intraocular pressure induced by differential forced unilateral nostril breathing, a technique that affects both brain hemisphericity and autonomic activity. A pilot study.
Backon J, Matamoros N, Ticho U.
Mount Pleasant Hospital Addiction Studies Foundation, Lynn, Mass.

There is evidence of the central regulation of intraocular pressure, and it has been suggested that vagal tone might be elevated in glaucoma simplex. The nasal cycle, the simultaneous congestion-decongestion response in the nasal cavities, reflects the dynamic lateralization of the autonomic nervous system. Since this lateralization presents with sympathetic activity induced by left brain hemisphere stimulation and parasympathetic activity induced by right hemisphere stimulation, forced unilateral nostril breathing (FUNB) has recently been demonstrated to induce selective contralateral hemispheric stimulation as measured by relative increases in EEG amplitude in the contralateral hemisphere as well as alternating lateralization of plasma catecholamines. Using this functional vagotomy/sympathectomy, we report the novel finding that right hemispheric activation via left FUNB increases intraocular pressure (IOP) by an average of 4.5%, whereas left hemispheric stimulation via right FUNB leads to a significant (25%) decrease in IOP.
(この論文は、無料で全文を手にいれることができます。興味のある方は、Medlineで検索して入手しみてください。)


さっそく、鼻呼吸と脳の偏りについて、患者さんに話してみました。
一人は、頭がボーッとして、思考能力がかなり落ちてしまっているという男性の公務員の方で、右の鼻がつまっているのがよくわかりました。右の鼻がつまっていると、左脳のはたらきがうまくいきませんから、左の鼻孔をおさえて右の鼻で呼吸してみることを試してみてはと話してみました。来週、どう変わっているか楽しみです。
もう一人の患者さんは、女性でありながら、大学で政治を教えている方ですが、頸椎症と肩・背部に放散する痛みを訴えています。お腹の呼吸がかたまっているために、内部の圧力が萎んだようになって、頸胸部が縮んでいるからですと話しましたら、どうしてお腹の呼吸ができないのでしょうと訊ねてきました。“どうしても固定した対象に集中してしまうところがあるからでしょう。左脳に偏る傾向が強いからです。もっと一つの対象に集中するのではなく、空間全体に注意がおよぶような感覚がだいじです。料理や生け花のような趣味を習慣的にしたり、自然の中で川の水の音とか、小鳥の声とかに耳を傾けるように、自然の中で瞑想することもいいのでは”とアドバイスをしたのです。
そうしましたら、若年性痴呆症で有名な築山先生に診察を受けたときにも同じようなことを言われたというのです。左右の脳組織の線維が段違いに左脳で発達しているMRI画像を見せられて、“あなたは自分のことに集中しすぎるところがあります”と言われて、やはり私と同じアドバイスをしてくれたと話してくれたというのです。
身体の正中で、きちんとした呼吸の力動性が生じていないと、中から上下に背骨を伸ばしてくれる力動性がなくなるために、姿勢は崩れて老化がはやくなるのです。姿勢をきちんと保てることと、お腹の呼吸はきわめて大事ですよと念を押したのですが・・・
頭で分かっても身体で分からなければと、剣術の袋竹刀をとりだして、呼吸に合わしてあやをきる簡単な運動で、腹横筋や背筋、それに骨盤底筋などの深部筋を鍛えて姿勢を良くすることを指導してみました。これは私なりのピラティスなのです。私自身、剣術や居合を始めて、姿勢が良くなったと実感しています。

今回は、細々としていましたが、みなさんの独創的な発想や応用結果をコメントしていただければたいへん参考になります。

自我から主体へ
無意識なる世界に身を浸すために

不確実な過程を扱うひとつの方法として確率があります。でも混沌とした状態であるカオスは確率でとらえることができないということです。未来は必ずしも過去からの連続にはならないのです。宇宙、気象状況、経済、それに脳のはたらきにいたるまで、カオスはマクロな世界でみられる普遍的な現象のようです。しかしこの混沌とした世界の縁に秩序的な生命現象が生じると言われています。

心の深層もまた混沌としたカオス的世界としてみなせるのでしょう。無意識的な世界とは、無秩序な混沌とした世界のような印象をもつわけです。このいわば無なる世界から湧き上がってくるものがあります。夢とはまさにこうした湧き上がってくる不可解な世界の様相を示しているその典型とみなされてきたわけです。

身体症状もまたこうして湧き上がって出てくるものの一例なのかも知れません。身体症状だけでなく、否応なく湧き上がる感情を自分で制御できずに苦悩する患者さんもいますので、精神的な苦悩は自分で受けとめることのできない不可解な表出でもあるわけです。脳裡に、取材活動で観た悲惨な映像が次から次へと現れてくる症状に悩まされている方もいます。

こうした症状の犠牲となっている自分、被害者側にあって苦悩している自分がいつも中心にあります。心の深層から湧き上がってくる暗号めいた症状を理解できず、苦しんでいる自分がいつも定点としてあります。この不可解な暗号をだれか読み取って解読してもらえたらとも願うわけです。心の問題であれば、頼りになる相談相手から霊能者までいろいろな人に助けを求めることになるのかも知れません。

精神療法の先生方は、患者さんの苦悩の因(もと)を、患者さんに代わって解読してあげるわけではないと言うことです。患者さん自身に湧き上がる暗号のようなメッセージを自分でいかに解読していったらいいか助言をするだけだと言います。
“これはこうなんだから、こうしなさい”というようなことは正しくないと言います。あくまで患者さん自身が解読するようにもっていってあげることが基本です。患者さん自身が自分で考えていくうえで、正しく解読できるように仕向けることがカウンセリングだというのです。

ここで一つ思ったことがあります。自分のいつもの定点を変えて、視点を変えてみることも有益かも知れません。いわば加害者のように自分を苦しめている何ものかになり代わってみる発想です。犠牲者としての自分から加害者側に身を置いてみる発想です。そうしたときにどんな想いが浮かんでくるのか・・、少なくともこれまでの犠牲者側にあって苦しんでいるときとは異なった気分や感情が出てくるかも知れません。そのときの気分に浸って、新たに湧き上がってくる閃きを待つことも有益なことのように思えるのです。このとき無意識なる世界に身を浸しているように思えるのです。

無意識の主体が自らの自我に、不可解な暗号でメッセージを送っていると仮定しますと、やはり解読のしかたを知っているのは、他人ではなく自分だけのような気がします。新たに湧き上がってくる閃きを使って解読作業を続けていくことが必要なようい思えます。

ある患者さんから、次のようなメールをいただきました。

先生へ
すいません、今日キャンセルさせて頂いても構わないでしょうか。
嫌なことがあった分けではないのですが、自分の中で、ゆっくりと答えが見えてきていて、その感情や気持ちの変化にゆっくりと耳を傾けたくて、その中で、治療という行為というか、場所にはもうちょっと先に、今は何か違うと思ってしまって。
うまく説明できず、申し訳ないのですが。
もちろん治療あってこそとは考えるんですが、すみません。
またお電話します。
○○


徒手療法家としては何とかしてあげたいという気持ちから、患者さん自身の解読作業を見守っていきたいという心境になっていました。

湧き上がる気分や感情に浸って、コトバを知らない赤ん坊なる主体に代わってみることも必要なのかなと思ったしだいです。
『脳と心』

心脳問題

プラセーボとは、偽薬のように本来薬としての作用がないものを薬として称して患者さんに与えられることで、治療としての心理的な効果を患者さんにあたえる効果として知られています。実際にこれが功を奏して、大いに治療効果をもたらすことがあります。
プラセーボとは心理的な効果であると考えられていますが、実際に内因的な鎮痛機序を賦活し、生理的な活性を引き起こしていることがわかっています。

このことが意味するところは、心理作用が実際に物質的(生理学的)な現象を引き起こしているという事実があるということになります。たんに気のせいということではないのです。

でも科学的な見方をすれば精神機能とは脳の活動によって創発されている心のはたらきとされていますから、現象としての精神機能が逆に物質的な変化を生み出しているということになります。これではこれまでの科学的な論理としては矛盾したことになってしまいます。あくまでも心は脳という物質的な基盤から生まれるものと考えるのが科学ですから、脳の物質的な変化が心の作用から生まれるとなると、これをどう説明すべきか困るわけです。

精神・気力で病気を消してしまったということを実際に聞くことがあります。科学の考えでは割りきれない真実もあるのだろうと、たいていの人は漠然と信じているところですが、科学としてはこれで済ますことはできません。

哲学者と科学者の間で長年熱い議論を巻き起こしている大きな問題があります。心脳問題です。

脳科学者は、心は脳の活動によって生まれるという見地をゆるぎないものと感じているはずです。脳のはたらきと精神活動の相関を示す脳科学の圧倒的な根拠が背景にあるからです。
しかし、科学者であっても、その時々の文化やものの見方・考え方に染まっていますので、いわゆるその時代の自覚されていない見えない思考の枠組み(パラダイム)に制約されていることを自覚できずにいます。あるとき論理的に説明できない実験結果に出くわしたときに、これまでの考え方を変えざるを得ず、大きな思考の転換であるパラダイム・シフトへと発展していくのです。

その時代の思想を開拓する哲学者は、今時代をリードするもの見方や考え方を今一度吟味することを科学者に強く勧めていると思うのですが、圧倒的な科学的業績の前では霞んでしまっています。最近読みました「脳と心」(みすず書房)も、著名な脳科学者と哲学者の議論なのですが、どうもそんな印象を持たざるを得ませんでした。哲学者は脳を超え開かれた『基体』と表現された媒体について考慮することを主張するのですが、脳内現象を追求する脳科学者にはそれは一般的な語彙として一蹴されてしまいます。
この哲学者の言うところ基体についてはこの本であまり説明がなかったのですが、メルロ=ポンティの<身体>と<肉>の概念を思い出し、意識あるいは注意はこうした媒介する何かがあってのことと頷けるのです。

「私の身体は世界と同じ肉でできている」、「肉とは質量でも精神でも実体でもない、それは客体と主体を形成する培養地という意味での存在のエレメントであって、今までの哲学のうちには名前をもっていないけれども、それだけでも思考可能な究極の概念である」とメルロ=ポンティ(1908-1961)は書き記しています。

身体は私達だけのものではないと言うのです。世界もまた<身体>であり<肉>なのです。メルロ=ポンティの説く身体とは、世界は分離されたものではなく、すべてが一体感のある関係を築く土台となるものです。培養地と比喩的にメルロ=ポンティは表現していますが、これをメルロ=ポンティは間身体性と呼んだのです。互いに感じていることを共有し多くの人達と共有できる感覚のひろがりとなり、それが客観性を帯びた間主観的な見解へと導かれることになるのです。客観性もなく主観性もないという両義的(曖昧)な世界です。

身体呼吸療法で患者さんの身体に触れていますと、まさにこの両義的な世界に迷い込んでしまいます。手は患者さんの身体に融け込んでいくように境がなくなり、意識は身体の体液の潮流に乗って全身に注意がおよびます。流れが鬱滞しているところ、組織の活動性が乏しい虚したところが自然と伝わってくるのです。
身体の内圧変動という体液的な膨張収縮の律動的な潮流に乗って、患者さんの身体と渾然一体化する不思議な感覚の広がりを持つことができるのです。
「私の身体は世界と同じ肉でできている」と書き記したメルロ=ポンティの言わんとするところがなんとなくわかるような気がするのです。

身体を形づくる物質は自然界の食物を摂ることで取り替えられ続けています。身体は自然を素材にしてつくられています。生命活動が止めば土に還っていきます。
数学者から哲学者へと転じたホワイトヘッド(1861-1947)が指摘したように、身体はどこではじまり、そしてどこで外界の自然がどこで終わっているのか決める境界は存在しないのです。あらゆる存在が無数の複雑な相互作用の網目となり、刻々と新たな出来事を創発する世界に立ち現れているのです。

脳が心を生むのか、心が脳を操るのか、この冒頭の問い掛けに対しての解答とはなりえないのですが、脳が先か心が先かという問いの立て方そのものに問題があるのかも知れません。