Manual Medicine 大場 弘 Blog 

マニュアルメディスン(徒手医学療法)は全身をトータルに捉え身体の連関性を追求する医学です。
ここではマニュアルメディスンによる治療法や、症例などをご紹介していきたいと思います。

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能楽師 山村庸子先生に学ぶ その二
息の遣い方

理学療法士で最初にマニュアルメディスンの世界に飛びこんでこられた山本尚司先生と、身体呼吸療法の四天王の一人、伊那市の伊澤勝典先生を誘って、山村庸子先生の声の道場に参加してきました。両先生ともとても感動され、山本尚司先生は即刻ブログ(運動連鎖アプローチ研究所http://rensa.blog43.fc2.com/でその感動を伝えていました。かなり正確に山村庸子先生のお話を理解されていて、さすがに一門を率いる大先生になったのだなあと感心しました。

今回は、山村庸子先生に指導していただいた息の遣い方について、私なりの理解から書いてみます。しかし実際は一人ひとりご自分で体験して、身体感覚でつかまえないといけないわけですが・・・。

山村庸子先生のお話では、息を遣うためには、気道がまっすぐとなるように、頭の付け根を頸椎にきちんと押し当てるように、顎を引く必要があると言います。顎があがっていては息をつかえず、声帯に頼った声になってしまうというのです。

解剖図を参考に息の遣い方を考えてみました。ひそひそ話をしたときの声帯はほとんど閉じてかろうじて後方が開いています。このとき息はいっきに声帯を振るわすことなく、徐々に上方へ抜けていくことになります。

声帯に息をまわさずに

そして、喉頭の上方、軟口蓋が閉じていますと、息は鼻にまわりません。息は上顎(うわあご)から後方に導かれ、咽の奥で響きます。このときの響きが中音と呼ばれるのだそうです。これより上で響く音は、上音(高音)と呼ばれ、子どもの声としてつかわれるということでした。

確かに、姿勢を正して顎を引いたときに発する中音は、いつもの声より音階が高く感じられます。これが私の自然な声(地声)なのでしょう。

さて、上顎から咽の奥に響いた音を下方に逆戻りさせるとなると、私にとって容易ではありません。咽の後壁から脊柱前面に沿って身体の下方へと導くことになるのですが、このとき根を張ることが必要だというのです。音の響きを導く膜が張るということなのでしょうか。それによって胸郭が共鳴箱のように鳴り響くことになることが想像できます。実際、山村庸子先生の胸から響いてくる音響のすごさは、大きなスピーカから響いてくる音響のようでもありました。

能の世界では、安定して横に広がっていくことが特徴なのです。それは欧米の縦に伸びる文化と対照的です。能舞台で山村庸子先生がたたずむ姿は、まさに富士山の裾野が横広がりにひろがる美しさでした。これが日本の美なのです。

私たちは先ず立ち方から学ばなければなりません。
山村庸子先生が指導してくれた方法は、私が患者さんに教えている方法と同じでした。それは先ずつま先で立ってもらって、安定したところで静かに身体を沈めてもらうのです。たいてい患者さんは後ろ体重がかかっていますので、姿勢を正しく立たせたときには、かなり前傾した立ち方の印象をもつため、患者さん本人が驚かれます。

さて、ここでニュートラルな状態で立ってもらってから、膝を緩めてわずかに屈曲位でお臍を下に向けるような気持ちで、いくぶん骨盤帯を前傾します。すると、腰仙関節部に負荷がかかったような感じが出ます。これで腰が入った状態となります。
腰が入るという身体感覚は今の若い方々には分からないかも知れません。私の剣術をやっている身体感覚では、下部腰椎と仙骨のところに弾力的なバネができるような感覚です。このためには、腸腰筋のはたらきが不可欠なように思えます。

そして両肩を両耳の後ろまで引き上げて、ストンと両肩を自然に落下させて緊張を除きます。私の感覚では、首から頭が逆に天に伸びるような感じにします。剣術では、両脇をしめずに、フワッと余裕をもたすのですが。

最初に述べましたが、頭の付け根を背骨に押しつけるように顎を引いて、腹式呼吸を始めます。
このとき息を溜めることがだいじですから、お腹をできるだけしぼめないようにゆっくりと、ハー・・・とできるだけ息を長くもらしていきます。もれた息を上顎に当てつつ咽の奥壁にまわすようにするわけです。

息がじゅうぶん長く吐けましたら、息を吸いたくなるわけですが、このときスッと下腹まで息を自然に取り入れます。息を吸おうとせずに、自然に入ってくることがだいじです。

ここで息に声を載せるように音を響かしてみましょう。
どうでしょうか、できますか?
私はどうしても声帯に息が行きすぎるようで長く続きません。咽頭の奥壁で響かすことができていないようです。しばらく稽古を続けて、また声の道場に出かけてみようと思っています。

息を溜めることができていないことに愕然としました。これでは居合が上手になれないわけです。息を十分に留めて、身体の内側から気を発するようにがんばってみます。息の遣い方、とてもだいじなことと感じています。

次回は、来年の2月、第2と第4土曜日の午前10時からの二時間、東中野駅から歩いて10分もかからないところにある梅若能楽学院の3階で行われます。
ぜひ関心のある方は参加されてみてはどうでしょうか。
問い合わせ申し込みは、Fax 03-3392-3267(山村庸子先生、声の道場)です。
なぜ治らないのか 4
器質的な疾患と機能的障害

私たち徒手療法家はお医者さんと違って、器質的な疾患を扱うことは本業ではありません。本当の病気である器質的な疾患はやはり現代医学の治療に基づいて行われるべきですが、医療にも限界があります。そうした限界を少しでも補うために私たちができることもあるのですが、ほとんど日常的な臨床では機能的な障害を扱っているわけです。

機能的な障害であれば、うまくその問題を解消できれば即効性があることになります。したがって私たちの立場からすれば、ある程度効果が直ぐに出てくることを期待してしまいます。もちろん機能的な疾患と言え、直ぐに解消すると考えることはあまりにも短絡的なところがあるのですが、それでもなにかしら治っていく道筋が見えて欲しいと願って治療にあたっているわけです。表題としてとりあげた『なぜ治らないのか?』という自問自答には、良きも悪しきもこうした徒手療法家としてのサガ(性)があります。

また、本当の病気になってしまったらたいへんだという思いもあります。たとえば、“このままでいったら本当に病気になってしまいますよ、いったん病気になってしまったら回復するまで年単位ですよ”と、できるだけ病気にならないようにと患者さんを諭すこともあるのですが、それぞれ生活がかかっているとなると、なかなか生活を変えさせるところまではいかない弱さを自覚してしまいます。

数週間前から、たいへん残念で悔しい思いをしています。
以前に軽い脳血栓を起こして倒れたことがあった患者さんを治療したことがあり、幸い後遺症もなく回復していたのですが、今回もまた旅先で重度の脳血栓のために倒れてしまいました。昨年に会ったときに、とても危険な状況になるという予期を、顔の表情から読み取れていたのです。遠方にいる方ですので、治療をしてあげられずにいました。家内とよく電話で話すことがある方なので、とにかくいつ倒れておかしくないので自制するようにと伝えてもらっていたのですが、ついに旅先で倒れてしまいました。現在、集中治療室で治療を受けています。

こうなることが分かっていたのにと・・
それを防ぐために、結局なにもしてあげなかったことを悔やんでいます。
分かっているのになにもせずに口先だけで終わってしまっている自分の行動力の欠如を自覚させられます。まさに慚愧に堪えないとはこうゆう思いなのでしょうか。

脳の浮腫がはやくおさまり、回復へと向かわれることを願っているところです。
能楽師 山村庸子先生に学ぶ その三
心の鏡に映す技と芸

剣の世界では、鏡のように心静かに、対峙する相手の虚を映しだすことを強調します。心が乱れていては、さざ波が起きている水面の像のようにただしく映し出されることはありません。
剣術の型稽古では、あれこれ考えながら対峙してもうまくことは運びません。
まっさらの気持ちで対峙する相手と一緒につくりだす場にのって、流れのままに動くことができると、なにかしら充実感がありとても爽快な稽古になります。
後輩の使太刀(しだち)が先輩の打ち太刀に稽古をつけてもらうのですが、使太刀が勝つ約束事のような型稽古であっても、勝ち方が本当に勝ったのかどうか、はっきりとでてきます。
でもこうした充実感のある稽古はおたがいがどんなに真剣に気を感じてできるかどうかにかかっているようです。

気とは、包み包まれる場が生じてはじめて現れてくるように思えています。
そして、そうした気は、まさに息の遣い方にあるように実感するようになりました。


昨日(5月17日)、声の道場で息の遣い方を指導していただいている梅若女流能楽師の山村庸子先生がシテを演じる『松浦作用姫』を観てきました。2時間にも及ぶ長い能でしたが、その間私の下っ腹は重みを感じたままで、それが起き上がり小法師(こぼし)の重石のようになうに上体を前後に揺さ振られ続けていました。
ここに登場する山村庸子先生が演じる松浦作用姫とは、遣唐使として船出する愛夫の別れを惜しみ、贈り物の鏡を胸に、身を松浦川に投じた作用姫の今はなき霊なのです。その心情を面(おもて)の内側にうち含み静かに朗々と演じていました。
その息の遣い方は、静かにしてよどみなく、下っ腹からまっすぐに上にのびたものでした。

そんな山村庸子先生の息遣いに私自身の呼吸も引き込まれ、下っ腹が前に突き出たように力が入ったままで、まるでお腹の下に重石がかけられたような感じがずっと続いていました。こんなに長い間、お腹に力をこめていたことは初めてで、充実感のある疲れを体験しました。
グッと息を下っ腹に溜めたまま2時間、朗々と霊の語りを演じていたわけですから、本当にすごいものです。能で「息の根を張る」ということの意味を体感させられたような思いです。

この能には登場人物があと二人います。
一人はワキを演じる旅の僧で、作用姫の霊と語らう役どころです。男性ですがとても美しい声でした。その声に私の胸も一緒に響くようで、山村庸子先生の息遣いよりも上の胸で響くような印象をもちました。やはり役どころで響きかせ方が違うわけです。

山村庸子先生の霊の役どころとなりますと、かなり難しいことが想像できるわけです。透明感を持たせ、どこから響くともなく、下っ腹から上に真っ直ぐ抜けていくような響き方を感じたのですが・・・
下腹部にぐっと圧を押し込めるように横隔膜をぐっと下げて、その状態でしかも横隔膜の等張収縮をある程度維持しつつ、わずかな横隔膜の上下運動によって息の出し入れを行っていたように思えるのですが、確かなことはわかりません。あくまで私の印象です。

さて、あと一人の登場人物は、その土地の人で、作用姫について語り継がれている話を旅の僧に聞かせる役どころなのですが、頭の中の筋書きを言葉にするのに一生懸命だったのでしょうか、その語りの間、なにか私の喉のあたりの緊張が増して、少し息苦しさを感じていました。
気管がまっすぐなるように気道を通して、息に声を載せるようにと山村庸子先生に言われているのですが、頭にあることが先に来るとなかなかできないものです。
やはり気が先にこなくてはうまく自然の流れにのれないということになるのでしょう。
剣術の稽古でもそうですが、気の流れにのって身体が自然に動くためには、気道まっすぐに息ができていないとそうした自然に流れる感じになれないのかも知れません。

気に包まれてそこに映される技と芸であることを強く印象づけられたのです。
鏡の映し合いは気を媒介にしていると言えるのではないでしょうか。
そして、気とは息の遣い方にあることを実感させられたのです。


蛇足ですが・・
芸事を学ぶためには、やはりあれこれと言葉による説明から入るよりも、とにかく観て身体で感じることが大事であることを痛感させられます。これまでやってきた剣術の稽古でもそうでしたが、あれこれと言葉で指導されることが多いのですが、そこでいろいろと考えて本来のはたらきを見失ってしまうわけです。結局のところ観て自分に映すことからしか学びようがないことを実感させられるのです。と言っても、幼少の頃から観て学ぶということはできない大人ですから、言葉の説明から入るしかないのですが、それでも熟練した本物の技を、芸を観て自分に映すことが不可欠なわけです。本物の技と芸を持つ師に出会うことは稀でとても貴重なことだとも思うのです。
アスリート達の真剣勝負が伝えるもの
 

涙ながらの悔しさ!

 

今朝、患者さんである老婦人(Mさん)とおもしろい会話ができました。

 

Mさん:おはよう。

先だって連れてきたBさん、とても喜んでいましたよ。

先生に“健康だ”と言われて元気になったようです。いろいろ病院に行っているので、自分は病気だと思っているのよね。

 

私:それは良かったです。自分と病気を同一化しちゃいけませんよね。(難しいことを言ってしまったかな・・)

 

Mさん:

私なんか、からだは悪いのに、気持ちだけは元気過ぎて、

でも最近、足腰に力を込めて歩けるようになってきたのよ。

 

私:(ふと我が家の老犬のことが頭に浮かぶ。でも、老いの話をするのも・・)

うちの老犬は13年なるんですが、風邪をひいてから寝込んでしまって、立ち上がれなくなってしまったんです。

水を飲むのと、おしっこするのにやっとで、なんとか起き上がっても立っていらないので、両手で支えてあげていたんです。家に誰もいないときには倒れたままで・・。
この数日、食べるものも食べず、寝たきりになっていました。
これで最後になるのかなと思ったりしていたんです。


でも、今、元気になって歩けるようになったんですよ。すごいもんですよね。

 

Mさん:先生、なにかしてあげたの?

 

私:そう言えば、後ろから木刀を頭の上で振りましたね。そうしたら、なんだという感じで、頭を持ち上げて動かし始めていました。

 

Mさん:木刀を振るんですか・・

 

私:(つい、調子にのって・・)
昔、剣聖と言われるような剣の名人は、生死をかけて斬り合いを求めたんですけど、斬り合いのあの一瞬に、なにか求めたんではないかと・・、哲学的な意味でなにか・・

(またわけの分からないことを言ってしまった・・)

 

Mさん:

オリンピックを観ていて、真央ちゃんが二番で良かったと思ったの。

あのとき涙しながら、悔しいと言ったでしょう。

今の若い人達、“まあ いいか”で終わってしまっているから。

あの悔しいという想いが若い人達に伝わったのではと思ってたの。

 

私:そうですよね、

社会全体が「まあいいか」という体質になってますよね。

アスリート達のあの真剣な取り組み方、本当に悔しいでしょうね。

4年かけて、あの一瞬にかけてるわけですからね。

私なんか居合やっているんですが、すぐに我流にながれてしまって・・先生に注意されてはじめて気がついたりして・・

やっぱり、独りじゃだめですよね。まわりも厳しくないと。

 

Mさん:トヨタもそうでしょう。
なにか「まあいいか」というところあるから、あんな風になっているんじゃない。日航もそうだったし・・

 

私:(日本の社会をみごとに看破している! すごい人だ!)

この前も新幹線で、ボルトの締め忘れから、パンタグラフが架線を切ってしまったことがありましたよね。

組織の中で、ひとり真面目にやろうとすると、まわり人から嫌われるから、“まあいいか”ということになってしまうんでしょうかね

たしかに真剣に厳しく取り組むということがなくなってきてますよね。

(私もきちんと仕事をしなければ・・無言・・)

 

 

ちょっとした話の展開に、なにか場が展開してゆく様を楽しむことができました。

それにしても、気骨のある方です。娘さんがイギリス人の方と結婚していて、イギリスの家庭の気風も前に話してくれたことがありました。

だいじですよね、日本もイギリスも、受け継がれるその精神風土は。

渦巻くエネルギー
 

「ドリームヒーラー

   光の手による量子のヒーリング」

 

私が今制作している本「頭蓋療法から身体呼吸療法へ」もあと一息というところなのですが、ちょっと気分転換にと図書館でふと手にした本がありました。「ドリームヒーラー 光の手による量子のヒーリング」(徳間書店)という本です。これを行き帰りの電車の中で読んでいました。この本はいわゆる不可思議な世界の本なのですが、アダムという若干16歳の超能力者がヒーリングの世界を奢ることなく謙虚に語っていて、好感をもって読むことができました。

 

かなり前のことですが天安門事件の前です。気功の学会があって、私が北京に行ったとき、そこで著名な気功師や超能力を持つ人達に会う機会がありました。その中でとてもきれいな女性の超能力者がいて、カラーで人体の内部を透視できるということでした。日本では超能力といいますと見せ物のように扱われますが、中国ではこうした超能力者は国家的にとてもだいじにされているようでした。

 

この本の著者アダムという若者も、リアルに体内を見ることができると語っています。彼は人体をさまざまなシステムからホログラムとして見ています。意識をもってゆくことで、見たいものをリアルに立体的な像として浮かび上がらすのだそうです。脳の活動でさえ、信号の伝達が高速で行き来する様子を見ることができると語っています。器官・組織、細胞、遺伝子レベルと知りたい情報がホログラムな映像として自由に開示されてくるというのです。

 

彼の天性の能力が最初に開眼したのは、エネルギーのホログラムでした。著名な気功師に指導を受け、エネルギーの流れを視覚化すること学び、自分の途方もないエネルギーを制御できるようになっていた経緯が最初に書かれています。

 

彼が語っているところをみると、エネルギー場で問題なのはエネルギーの閉塞のようです。宇宙とつながっている生命のエネルギーをスムーズに循環させるためには、グランディングがだいじと言います。すなわち足から大地とエネルギーを交流することですが、息を吐きながら意識のはたらきで自分のエネルギーを足から大地へと深く落としてゆくことで、宇宙と自分とのエネルギー回路がつくられます。そして宇宙のエネルギーを効率よく活用することからはじまるというのです。(私自身の身体呼吸療法でも、足から呼吸をひらくことからはじめますので、共通性を感じます。)

 

基本となるエネルギーのホログラムでは、体のエネルギーシステムのグリッドから、エネルギーの流れ方が分かり、エネルギーの閉塞部位も分かるというのです。エネルギーの変化がその人の体にグリッドの形で案内図を与え、ヒーリングの道筋の手本となると語っています。(きっと膜系を通して流れるエネルギーなのでしょう。)彼の興味深い説明がありますので、少し変えて引用してみます(112p)。

「体の中の深いエネルギーのグリッドパターンからは、原因が頑固に残っているために発症しそうな機能障害や病気があるかどうかがわかる。3次元の等高線地図を見るとき、グラフに不完全なところがあればすぐにわかる。健康なシステムには調和と流れがある。機能障害を起こしている部分の周りには乱れが見つかる。古傷が頑固に残っているところも、このホログラムではよく目立って見える。・・ぼくは治療の前後には全体のホログラムを見て、その人が新しい健康のパターンをうまく受け容れたかどうか確認している。エネルギーの閉塞がちゃんと除去されているかどう見ることもできる。全体のホログラムを見れば、さらなる治療が必要かどうかもわかる。治療の効果は人によってさまざまである。」

 

彼が最初に身につけて視覚化の技術はオーラを見ることから始まり、しだいに体内をスキャンすることができるようになったとのことです。そして、人はエネルギー場によってつながりを持っているため、たとえ会ったこともない遠くに住む人にさえエネルギー的にコンタクトをもつことができ、ヒーリングが可能になったと言います。

 

どうしてこのようなことが可能なのかと深く考えるようになったとき、アポロ14号の宇宙飛行士であったエドガー・ミッチェル博士との出会いがあり、量子ホログラムと表現するところの量子力学的な世界観を学ぶことができたとあります。一言で言えば、生命のすべては量子情報の場/宇宙エネルギーのシステムでつながっているということなのです。

 

量子論から量子力学にいたった現代物理学の発展は、日常の現実とはまったく相容れない不可思議な世界観を打ち出し、哲学的・思想的にもきわめて深刻な影響を与えました。その端緒となったのは1900年ドイツの科学者プランクが提唱した量子という概念です。(この時代、アイシュタインも同じく活躍しています。)ボーア、ハイゼンベルグといった巨頭が現れ、この世界は観測する者と観測される物質の根源的な現象は不可分の関係にあることを明らかにしました。放射されるエネルギーは波動性と粒子性をもち、その極小のエネルギー塊の概念が数式で示されたのをきっかけとなってシュレーディンガーの波動方程式へと発展し、量子力学が生まれてきたのです。

 

私たちの経験する世界は、ニュートン力学的な世界で因果関係が成り立ちます。しかし原子よりさらに極小な究極的な物理学では量子力学という波動関数の世界となります。(この続きはまたの機会に・・)

 

高校生とは思えない語り口で、アダムは次のように見事にまとめています。

「すべての粒子は基本的に他のすべての粒子とつながっている。量子情報の場では、すべての情報と知識にアクセスすることが可能だ。どんな物体も、自身の量子ホログラム、あるいはイメージを放っている。それがこの地球上にあろうと、宇宙の反対側の星にあろうと関係ない。ぼくには、量子情報の場が、視覚的には誰かの脳の中をのぞくのとそっくり同じように見える。エネルギーのレベルで脳の中をのぞいてみると、脳内のすべてのニューロンにつながる経路のネットワークを通って、シナプスのスイッチがカチッカチッと驚くべき速度で入ったり切れたりするのが見える。量子情報の場に見えるノード(結び目)は、どれも明るく強く光っていて、ちょっと蜘蛛の繭にも似ている。どの繭からも無数の経路が延びていて、それがみなほかの繭につながっている。それが際限なく続いているように見える。量子レベルでは、1つの同じシステムを形成する2つの粒子の行動は、距離が離れていても同時に起こる。これを非局所性と呼ぶ。ぼくはヒーリングのとき、非局所性の情報メカニズムであるその人のホログラムとつながり、意図的にその人の体に情報を送り、体に変化を起こさせる。健康状態がよくなると、それが量子ホログラムにも表れる。癒そうとするぼくの意思と、健康になりたいという相手の願いがあれば、実際にこれでよい結果が得られる。ぼくの精神はリモコンのように働いて、ぼくをいろいろな周波数に調節し、そのたび違ったホログラフィックなイメージが見える。ホログラムが現れれば、ぼくはエネルギーを調節することができ、その人が自分の健康ね状態に戻す道を見つけられるようにする。ヒーリングしようとする意思を通じて、ぼくは治療している相手に情報を送る。ぼくはそれを相手の体と共鳴することで行っている。」

 

基本的なエネルギー場の治療から、私にはとても実感できそうにないことなのですが、ガンの治療、神経病や遺伝子異常といった病理的な問題へと語られています。

 

こうした体験的、現象学的な話というものは、見る者、聞く者が共感できなければとても信じられない話かも知れません。でも少しでも共感できるところがあれば、そこから大きなヒントを得られることもあります。

 

この本、私にとってけっこう刺激となりました。

リボンをぐるぐると身体に巻きつけたような、帯状のエネルギーの渦巻きが、何人かの患者さんで見えたような・・・

 

一人の若い女性は、しつこい右顎の軽い痛みのポイントから、頭部から頸部、上胸部へと巻き付いたエネルギーの帯が・・・

おもしろいことにその帯の内側にも帯状の別の渦巻きがあって、反対側へとひろがっていました。互いに相補的な絡み合いのようなイメージが浮かんできました。この絡みついたエネルギーの帯を解き放すのはたいへんでしたが、なんとかリリースできたようでした。後日、しつこかった左顎関節の痛みがとれましたと、でも寝違いたように頸部の痛みがあったと報告してくれました。

 

また一人のご婦人は、両足首が痛くて歩けないと、痛々しい足どりでやってきました。両足首とも緊張を帯びていましたが、腫れもなく、じゃっかん熱っぽくもありました。結構、無理していたような印象です。しばらく触れていましたら、両足をロープで幾巻も縛ったようなイメージです。しかも、左足ではそのエネルギーのローブが下腿から足に抜けるように貫通しているイメージが浮き上がってきます。なんとか、巻き付いたロープを解きほどけたような感触になりました。その後、歩くのがずいぶん楽になって、踵がつけると喜んで帰っていきました。後日、再びみてみましたら、右足の方はかなり改善しているような感触でしたが、左足は貫通したエネルギーのローブの残像があり、それを解消すべく治療をおこなってみました。たぶんこれでずいぶん楽になっていると思います。

あのロープのイメージは、このご婦人に動いてはだめというメッセージだったのかと、後で気がついたのですが・・

患者さん、たいていはエネルギーの閉塞がほとんどのようで、みんながみんなこうした絡みつくエネルギーの印象ではないのですが、確かにこうした状況はあるようです。エネルギーの視覚化、イメージ化という新たなスキルを得ることができたのかも知れません。

また楽しみ/苦労が増えたような気がします。

大いなる構想

“分からない”から“分かった!”へ

 

5月に入って立て続けに大きな講習会(セミナー)の講師を受け持ち、なんとか乗り越えた感じがしています。

 

一つは55日に、運動連鎖アプローチ研究所の山本尚司先生の後押しがありまして、理学療法の先生方へ「頭蓋療法から身体呼吸療法へ」(新刊)をテキストに講習を行いました。予想以上に参加者が多くなってしまい、一人ひとりに十分な指導がゆきわたらず、ご迷惑をおかけいたしました。

 

山本先生の感想では、10年以上のキャリアを持つ先生方がこうしたセミナーに集まることはめずらしく、かなりベテランの先生方が多かったことに驚かれておりました。

みなさんは熱心に聴いていただいていたという印象があったのですが、アンケートを見ましたらかなりの戸惑いがあったようです。まったく異なった概念と実践に戸惑っているように思われました。こうした心情は、“なんだか分からない”という表現になってしまいます。アンケートではよくわからなかったとか、もっとしっかりとしたかたちで教えて欲しかったと、いくぶん手厳しい反応にプロの人達から洗礼を受けた気持ちでいました。語り手と聴き手がつながっていなかったようです。場をたがいに共有するところまでいっていなかったことになります。

 

それでも、はるばる遠くか来られた先生からお礼のメールと質問をいただきました。


「今回は大場先生の講習会を受講することが出来、1つの現象も色々な見方があることを知ることが出来ました。特に、今回の身体呼吸療法は、まだまだ未熟ではありますが、私の治療概念にパラダイムシフトをもたらしました。

臨床あっての研究と常日頃から考えていますので、効果がある治療を学ぶことは自分の臨床、研究に多くのヒントをもたらしてくれます。

内圧を感じることは、今まで臨床で用いた触診とは異なるものでした。そこに何があるのかを探索する触診とは異なり、内圧がくるのを、手で受け止めるような、受動的な繊細な感覚が要求されます。とにかく圧倒された1日でした。

飛行機の中でその日に習ったことを反芻していると、質問が生まれて来ました。 

頭蓋療法ですので、頭蓋からアプローチすると思いますが、反対に足部から身体呼吸療法によってアプローチすることはありますか?

 と少し重なりますが・・・

風船のイメージで頭蓋、全体へと治療対象の範囲を広げていきましたが、例えば下腿、大腿のような骨構造が複雑でない部位に対しても、下腿を1つの風船になぞらえて治療するのでしょうか?

講習会で下肢へのTide, Fluctuationを感じとる実技がありましたが、揺らぎが弱いと何らかの問題を呈すると考えて宜しいでしょうか?

日々大変お忙しいとは思いますが、お時間あるときにご教授お願い致します。

今後とも、どうぞ宜しくお願い致します。」

 

質問に答えて、次のように返信させていただきました。

身体呼吸療法は基本的に足から始めます。今回、セミナーでしたので、頭蓋療法からはじめました。脳障害がある場合には、頭蓋内圧変動が激しくなっていることがありますので、最初から頭蓋に触れることは良くないことと思っています(たしかセミナーのときに話したと思いましたが)
また一般の人でも、揺さ振りが大きく身心に影響することが少なくありませんので、そうした反応を出さないためにも、身体呼吸療法では足から始めることを基本としています。


身体呼吸も段階をもって深まりをもっていきます。
最終的には革袋に水が入っているような感覚にもなりますので、骨も肉も関係なく、均質な水の媒体として感じることもあります。ただそうした段階に深化する前に、左右の緊張関係を感じたり、膜系のテンションを感じたり、硬化した箇所を感じたりと、質感の変化がおこってゆきます。基本的には、風船をもっているような気持ちで触れてみると良いかなと、風船を使って説明してみたしだいです。


やはり、サザランドが発見した第1次呼吸機序が動き出している呼吸が健康的かと思います。普通の健康な方ではそれが寝ているときに起きているのではないかというのが私の仮説です。
オステオパシの父A.T.Stillは「病気や異常は誰も見つけることができる。しかし、我々の仕事は健康を見つけることだ」と語っています。本当にそうだと思います。私にとっては患者の健康とは、身体呼吸の深化そのものように思えます。

 

お礼の返信をいただきました。

「私は大場先生の手で直接、触れて頂けましたし、分からない所を見つける過程こそ学問の醍醐味であると思っていますので、この様に質問に答えて頂けて本当に勉強になります。

私は医大の他に脳科学を専門にしている北大の村上新治教授と一緒に研究しているのですが、脳の素晴らしさを感じる日々です。

大場先生の講習会も、身をもって、それを感じさせて頂きました。まだ質問もあります。また質問させて下さい。

返信有難うございました。」

 

こうして新たな世界を真摯に素直に受容された先生もおられ励ましになりました。

“分からない所を見つける過程こそ学問の醍醐味であると思っています”、と学問の世界に惹かれている先生の新鮮さが印象に残りました。

 

 

そして二つめのセミナーですが、

一昨日・昨日と二日間15時間の機能神経学module 1を終え、一息ついています。

これはアメリカのCarrick Institute300時間修士学コースの第一回目という責任ある立場で講義を担当させられたわけです。

 

あらかじめ届いていたスライド資料の内容はまったく様変わりとなっていました。神経変性が、ミトコンドリアにおけるエネルギー産生過程での活性酸素の過剰な発生という分子レベルで起こる障害に由来する機序とか、免疫学的にとらえた炎症過程における神経変性といった内容がテーマとなっていまして、私にとっては面食らうようなテーマでした。

Dr. Carrickのカイロプラクティック神経学とは、いかに神経系に適切な刺激を与えて、脳の活動を賦活できるかというところに醍醐味があったのですが・・・

それがサプリメントの役割の方向にシフトしてしまっているようで、正直なところ違和感がありました。

 

機能神経学コースの難解さに当惑したのは、講師の私だけではありません。初めて耳にする用語やコンセプトに、参加された方々の表情は葛藤でみるみるうちに暗くなっていきました。なにかしらの知識を持ち合わせていれば、それなりに分かったという気持ちにもなれるのでしょうが、初めてのことや、まったくの新奇なことには拒絶感さえ出てきてしまいます。

 

新奇なことには、最初に右脳がそれを感覚的にとらえようとします。初めてのものを理知的に理解しようとしても、バックグランドがなければ左脳は活動しようもないのです。したがってこの段階ではとても分かったという自覚はあろうはずがありません。しかし新奇なことも何度か出てくると、慣れと親しみが出てきます。この段階になるとすでに既知のこととして左脳が認識するようになっています。

ところが説明する段になると、なかなか説明ができません。

言葉による象徴化がなされるためには、さらに理解度の深まりが必要になってきます。このためには左脳と右脳が協力し合って、俯瞰的に大枠をとらえることと、細部を理詰めでとらえることで、理解を深めることができるようになるのです。したがって分かったという自覚が生まれるまで、何度も繰り返しが必要であることと、時間も必要になるわけです。最初から分かったとは、とても言えることではないのです。

 

機能神経学セミナーの終了後、伊藤彰洋DCと話しながら帰ったのですが、あの資料をつくったのはDr. Carrick本人ではなく助教授の方々がつくったことを知り、若い人達が新たな機能神経学を視野においてつくっているのではないかという話になったのです。

 

常に進歩して止まない学問の世界に、新鮮な気持ちを持って果敢に新境地を開拓している若い先生方の姿勢が浮かんできたのです。

そして自分の持っているものに執着している自分自身の姿に気づかされたような思いでもありました。

 

それにしても今回の機能神経学セミナーでの200枚近いスライド資料の多さには閉口させられました。アメリカの先生達とは、ミトコンドリアのエネルギーレベルがかなり違うようです。

 

ところで、最初の問い掛けに、機能神経学を学ぶことで将来の構想をイメージできますかとありました。私自身、そのことに思いを走らせてみました。そこで浮かんだことは、身体呼吸療法と機能神経学の統合という構想です。

 

身体呼吸療法の呼吸が開くという感じは、脳の神経細胞が透明な呼吸をし始める感覚でもあろうと思えるのです。きっとこのとき神経細胞の中でミトコンドリアがATPを円滑につくりだしているに違いないのです。

 

身体呼吸療法では、手で脳そのものの呼吸運動を感じることで、脳のさまざまな部位の呼吸の低下を感じ取ることができると思っています。

機能神経学の診断と身体呼吸療法の治療がミックスされれば、かなり有益な治療になり得るという確信があります。事実、そうした試みでディストニアや振戦が変わったケースも出てきました。

 

これからしばらくまた機能神経学をしっかりと勉強して、私自身の構想を実現させていきたいと思っています。

 

 

能楽師 山村庸子先生に学ぶ その4
 

息の根を張る

 

『・・・ 亀は萬年の齢を経。鶴も千代をや。重ぬらん ・・・』

 

能の謡の入門「鶴 亀」を手に山村庸子先生のところに通っております。

なんと言いましょうか不器用さと言いましょうか、なかなか謡の音にならず、本当にご苦労をおかけしております。まったくの素人相手に、汗を額ににじませながら本当に熱心に教えていただいております。有り難く、ただ感謝です。

今回はある日の稽古の様子を書き綴ってみました。

 

 

頭を壁に押しつけるようにアゴを引いて喉をまっすぐにして、そして少し前傾するくらい腰を入れて謡う姿勢がだいじなのです。どうしてだいじかというと、そうでないと息を充分に遣えないのです。しっかりと息の根を張るということになるのです。

 

イメージですけど、お腹に根っこを持ったままに謡うのです。根っこが上がってしまうと口が動いて息を漏らしてしまうのです。息の根をしっかりお腹に溜めていると、口が動かず自然に謡えます。

 

大場先生は硬くなっていて、どこかつまって響きが広がらないのです。先ず、上を向いてハァーと声を出してみてください。息を上顎(口蓋)にぶつけるようにハァーと。そのまま肩の力を抜いて顔を引いていってみてください。そうすると残った息に音が響くでしょう。きちんとした姿勢で、充分に残っている息に響かすのです。

 

その感じで『亀は万年の・・』と謡ってみてください。

 

(亀は萬年の齢を経。鶴も千代をや。重ぬらん) 

 

そこがだいたい大場先生の上音(じょうおん)なのです。

息としては上に行くイメージなのです。そこで上顎(口蓋)に当るでしょう。そうすると息がからだに溜まるから、戻って息が凝縮されて、そこに音が響くわけですよ。

 

外に出す大きな声でワァワァ謡うのではなく、体の中の息をしっかり遣って、そこに音を載せて響かすという謡い方なのです。

なるべく外に息を出さないで、たくさん残っている息に音を響かせるのです。

 

強吟の場合には、息を強く上顎(口蓋)に当てて声を出しておいて上からかぶさせるようにして体に響かす。

弱吟の場合には素直にハァーと上に出しておいて、その声を中心にして、中にグッ-と引き込むと弱吟の柱になるのです。

 

大場先生はガチガチになってやっているから、身体が硬くなって息が充満しないから響かないわけですよ。体が硬いと息を充分に溜められないから響かすことできないんです。しっかりと息を体の中に溜めてそれに響かせないといけないんです。

 

息を詰めて、息を上げないで、息を漏らさないで謡うのです。根っこがないと強吟は謡えないんです。

 

息はお腹に詰めれば、息は減っていかない。

喉に詰めると今開いているところがキュッとつまるから根っこのない声になってしまうわけですよ。

息は必ずお腹に詰めて、肺から息が出ていかないようにするのです。肺をここで(横隔膜)でしっかりと留めた状態にしていれば、息は出ていかないわけでしょ。

肺から息が出て行かないで喉が開いていれば、出した声がぜんぶ体に響くわけですよ。だから肺をここで(横隔膜)でしっかりと留めた状態で謡うわけです。謡では、違う音を出してしまうと漏れてしまうわけです。

 

そうした呼吸ができれば武道でも息を漏らさないで溜まったまま動けるわけでしょ。大場先生なんかでも武道をしているときには、あるていど息を詰めてやっているのでしょうけども、そうした今の声を出し方だから息が漏れてしまう。そうすると力が抜けたかたちになってしまう。

 

声を出しても息が出て行かないように研究してみてください。

 

 

「息の根を張る」ということが少し理解ができたような気がします。

山村庸子先生がおっしゃったことは次のようなことだと思います。

 

横隔膜をできるだけ下降させる。そのためには腰を入れて、下腹を膨張させる。腰を入れてハラを膨らませると横隔膜をできるだけお腹の方に引っ張って下降させることができるわけです。

 

この状態をいかに保持できるか、それがいわゆる丹田に力を込めることになるのです。生理学的な言い方をすれば、腸腰筋や横隔膜、骨盤隔膜という筋肉の等張性収縮を持続するということになるのでしょう。

 

横隔膜をできるだけ下降させた状態に維持できていれば、肺に留まる空気の容量は最大限保持できるわけです。この状態で息を上方へ、口蓋にハァーと当てるわけですが、横隔膜の保持が緩むと息が口から出て行ってしまうことになり、根が張れない音になってしまいます。体に響かない力の抜けた音になってしまい、謡にならないというのです。いかに息を押し留めて音を響かすかになるわけです。

 

息の根を緩めず(横隔膜などの筋肉を緩めず)、息を漏らさず、口蓋に当てた息を気道に戻してリサイクルするわけです。気柱をつくるということです。そうすることで体の中すなわち喉や胸、あるいは腹に響かすことができ、さまざまな音質に響かすことができるというのです。その音質の違いから若者から老年者まで、そして帝の位(みかどのくらい)までと重厚におごそかに演じることができることになるのです。

 

体験してみてあらためて、能の謡の奥深さに感銘しているところです。

能楽師 山村庸子先生に学ぶ その5
 

 

毎月一回、山村庸子先生に『息の遣い方』を学ぶために、お能の謡曲の稽古をつけてもらっています。

 

下っ腹にグッと力を込めその力が抜けないよう、謡を心がけていたのですが・・・。

 

最近ちょっと独りで稽古をしていなかったために、下っ腹にグッと根を張る感覚を忘れていました。それで稽古に行ったものですから散々でした。

汗を吹き出しながら一生懸命教えていただいている山村庸子先生には、申し訳ないかぎりです。

 

出来ていたかと思っていた基本がどこかに行ってしまっていました。

基本がしっかりと身に付くまで、不断の稽古が必要だし、そう簡単に身に付くものではないと実感させられています。

 

剣道型居合いでも、適法な姿勢といった基本が身に付くまで少なくとも三年以上はかかるのではないでしょうか。それが出来てはじめて、緩急とか、鞘離れの鋭さが出てくるようです。

 

何事にも基本が身に付くまで、決して型から外れてはいけないものなのですが、基本があやふやな状態では、正しい感覚もあやふやでふと気がつくと見失っているのです。

 

お能の謡でも姿勢が先ず基本の一つです。腰を入れて、お臍が下を向くようにします。両手の指を組んで後頭部に手枕をするようにあて、それにグッと頭を押しあてるようにして、首筋をまっすぐにします。

気道をまっすぐに息が口蓋にぶつかるようにするためです。息は口の方向ではなく、口蓋にぶつけるように上方にハァッーと口蓋にぶつけるのです。息に載った音は、気道や気管支にはね返され、からだの中で響くようにするのです。

 

からだの中で音を大きく響かせるためには、息がもれてはだめなのです。それに横隔膜はできるだけ降下させ、肺に溜まっている空気の容量をできるだけ大きくして逃さないようにします。

そのために下っ腹に力が入っていなければならないのです。ちょっと緩むだけで息が逃げてしまい、謡にならないのです。

居合いでも同じなのでしょう。グッと下っ腹に力を込めて肩の力を抜き、刀の抜きはじめはゆっくりと、それから刀が鞘から離れる瞬間に光を放つような早技になるわけです。居合いにも息の遣い方があると思っています。息をできるだけ逃さないで、最初から最後まで一つの息の遣い方だと思うのですが、なかなかそこまでいきません。

 

このようにグッと息を下っ腹に溜めるその充実感が、お能の謡のいのちかとも思えるのです。息の響きがなければ謡にならないのです。

 

先回の稽古では、一生懸命指導してくださっている山村庸子先生も、私の謡にさぞやまたがっかりされたのではないかと・・

 

もう一度、基本にかえって毎日ちょっと稽古をしています。

 

 

ところで下っ腹に息をグッと込める力の入れ方、これにはどのような筋肉の使い方をしているのでしょうか?

 

いろいろと考えているのですが、明確にわからないでいます。

腰を入れて、下っ腹にグッと圧力が入ってくる感覚なのですが、このときどんな筋肉がはたらいているのか・・・

 

横隔膜は基本的に意識でコントロールできる随意筋ではありません。したがって横隔膜を収縮させて息を溜めることは意識的にはできません。

 

横隔膜の収縮による吸気は生理的、自律的活動なのです。

横隔膜の呼吸運動はほとんど寝ているときにおきています(寝ている人にはもちろんわかりませんが)。

自覚できるのは、激しい運動の直後に横隔膜で呼吸しているときです。

通常、意識的に息を吸い込んでいるときは吸気補助筋によるもので、横隔膜の動きは二次的なものです。

 

頭脳活動をしているときには決して横隔膜の呼吸運動はおこりません。

コンピュータや仕事に集中しているときには、横隔膜の呼吸運動はむしろ抑制されています。大脳皮質の活動が横隔膜の吸気活動をなにかしら抑制するのでしょう。

 

それでもお能の謡や武芸では横隔膜を間接的にも有効に使っていますので、不思議なのです。何かしらの筋肉の活動によって、横隔膜が降下できるような姿勢をつくっていると思われます。そうした姿勢によって息を下に向かって自然に吸い込みやすくしているのだと思うのですが、その仕組みがまだよくわからないでいます。

 

もし、だれかわかる人がいましたら・・

上部頸椎と眼球運動
 

上部頸椎テクニック

 

カイロプラクティックの世界には、伝統的に上部頸椎をきわめて重要視し、その部位だけの調整で全身を整えることができると豪語する人達も少なくありません。

 

もちろん、重い頭を載せている上部頸椎になにかしら不都合がありますと、身体は歪んでしまいます。上部頸椎の緊張バランスに支障があって頭位が傾くということも、神経学的にみれば、いろいろな影響があるわけです。

 

視るという視覚系は、人間の脳にとってきわめて重要な位置づけにあり、正しく外界の像が身体情報と統合されて脳に反映されなければなりません。

先回の学会報告と題したブログで述べたように、RSD(反射性交感神経ジストロフィ)の発症メカニズムも、身体情報と視覚情報のミスマッチに起因しているという証拠が示されたわけです。

 

機能神経学的にみますと、上部頸椎からの身体情報は、正しく素早く対象物をとらえ注視するという眼球運動に欠かせないものです。逆にまた、眼球運動に関わる情報は、視覚系と身体バランス系のいわば接点にあたるわけです。

 

カイロプラクティック上部頸椎テクニック学派が豪語することもわからないではありません。ただ上部頸椎にだけ注目して完結するわけにもいかないのですが、長い間、私自身も少しばかりこだわってきたところでもあります。

 

最近、上部頸椎を調整するための技法で、私なりにイメージがようやく掴まえられ、ある確信が生まれてきました。このきっかけをもたらしてくれたのは平林先生という先生です。

彼はアトラス・オーソゴナル・テクニックと呼ばれる最上級テクニックを日本で続けてこられ、自分なりの方法を開発されて、治療を続けてきたというのです。

 

アトラス・オーソゴナル・テクニックが日本に紹介されてから、結構、年月が経っていると思いますが、これを続けている先生はきわめて少ないのではないでしょうか。

このアトラス・オーソゴナル・テクニックを正規の方法でやるとなると、厳密な位置で三次元的に撮影されたレントゲン像が必要であり、また正確な角度で刺激(瞬間的な振動波)を入射するための装置が必要だからです。

 

何年ぶりかで彼から電話があったのですが、入院しているというのです。ヘルニアということで、今にも手術されそうだから、とにかく病院から外出して行くから、私の治療を受けさせてくれと言うのです。

早速やってきた彼は、どう姿勢をとっても痛くて眠れない日が続いているということで憔悴した表情でした。何回か身体呼吸療法で治療して、下肢痛はほとんど改善できました。

 

病院も退院して、痛みも落ち着き余裕がでてきたころ、彼の上部頸椎談議となったのです。実際に私が被験者になって彼の技法で上部頸椎を調整してもらったりもしました。

彼の個人レッスンを受けたようなものでした。

私自身これまでの知識がありましたので、彼が話すエッセンスを何十倍にも膨れ上げさせ、先にこれ以上進むことができないでいた壁を突破するための知恵を拝借させてもらいました。

 

こうした経験的な理論に自分なりの感覚を融合させて、身体呼吸療法的な調整法を、患者さんの治療を通して会得させてもらいました。

 

カイロプラクティックの調整(アジャストメント)は、いきなり骨を鳴らすような矯正として恐れられていますが、決して骨を鳴らすことが目的ではないのです。また、古い厚生省の通達で、頸椎の矯正は禁じられています(三浦リポート)。問題は、素人の人達がカイロプラクティックのまねごとをしているから様々な事故が生じているように思えます。

 

私が会得した調整法は、アトラス・オーソゴナル・テクニックのセッティング方法に、瞬間的な重力刺激を呼吸の間隙に与えるようなものです。フッと、脱力的に、微妙な刺激を頭の重さで与えるだけのことです。何ヶ月かかかりましたが、ようやく良い感じになりました。

 

治療は、身体が自然に矯正してくれるように方向付けしてあげられるのが最善です。

 

もっともボキボキとやって欲しいという望む人も少なくないでしょうが、それは慰安ということになってしまいます。それはそれで必要なことかも知れません。疲れがとれやすいということなのでしょう。

 

眼球運動の臨床研究とあいまって、上部頸椎は重要なテーマの一つです。

私なりの調整法を検証してゆくためにも、ぜひ平林先生を招いて勉強会をもちたいと考えています。いつかこのブログで、ご案内のお知らせをしたいと思います。

アヴィセンナ 『医学典範』


ずいぶん前ですが、檜學(ひのきまなび)先生になんどかご講義をいただいたことがあります。檜學先生はたいへん偉いお医者さんで、京都大学の教授や島根医科大学の学長も務められました。ご専門はめまいなどを扱う耳鼻咽喉科に属するかと思いますが、平衡バランスに関わる神経学の大家でもあります。

 

退官後は、第二のライフワークとしてイスラーム医学の文献を翻訳されてきました。そして文献の翻訳が完成され、この私ごときに、厚さ5cmにもなる重厚な本を送ってくださったのです。

 

アヴィセンナ『医学典範』(第三書館):イスラーム医学の理論と臨床的知見を集大成した日本語訳の大著です。

 

イスラム教とアラビア語を基盤にした中世のアラビア文明と言いますと千夜一夜物語が有名ですが、アラビア数字で知られているようにギリシア文明を引き継ぎ科学の発達もめざましいものがあったようです。とくに医学の発達は、アヴィセンナ『医学典範』として結実したそうなのです。

 

こうした事情も知らず、どうして現代医学を修めた大家が中世の医学に関心をもって翻訳にあたっていたのだろうと、実は不思議に思っていたのです。

 

私は、科学とは大海に浮かぶ島々のような気がしていたのです。大海に散らばった島々のように散り散りで、分かっていることはごく一部だろうと思っているところがあります。

 

檜先生は長いこと現代医学に携わってくるなかで、科学という島々の間を満たす大海を意識されていたのではないかと勝手に推察してしまっていました。

 

私事で恐縮ですが、理性や言葉では理解できないところの暗黙の知に、触診を通して治療という場で感覚的に接近したいという衝動が常にあります。感覚的なことも単に五感的ななことではなく、なにかエネルギー的な存在に触れることで深い知覚が生まれくるような感じがしています。

こうした深い知覚と直感の基に、合理的な医学が築かれていったのだろうと勝手に想像してしまっていたのですが・・・

 

ところが、このアヴィセンナ『医学典範』を見てゆきますと、私の勝手な生ぬるい想像を拒絶するように、超然とした医学の規範を示しています。

 

科学に対峙し、目に見えない世界を求めるにあたっても、私たちにも厳しい態度が要求されているような気がしました。

徒手医学の構築においては純粋な感覚が不可欠です。そしてそれを探求する精神は、科学のように厳しいものでなければならないと・・・