Manual Medicine 大場 弘 Blog 

マニュアルメディスン(徒手医学療法)は全身をトータルに捉え身体の連関性を追求する医学です。
ここではマニュアルメディスンによる治療法や、症例などをご紹介していきたいと思います。

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はじめての身体呼吸療法 研修会報告
08.5.17初めての身体呼吸平成20年5月、「はじめての身体呼吸」をいろいろな方々にワークショップのかたちで体験してもらった。
写真は、グループで身体呼吸を誘導している様子です。「はい、それでは軽く息を吸って・・、は〜い、息を吐きます。 (“間”) は〜い、息を吸いま〜す。はい、グッと息を吸って、(押し寄せる内圧を感じ取ったら、下肢に掛けていた両腕をパッと外し除圧します)。」この操作を数回繰り返していきますと、下肢に伝わってくる呼吸の圧を感じられるようになります。ときには、両腕で押さえている下肢に揺らぐような圧変動を感じることができるようになるでしょう。


何かに集中しているとき、呼吸をしていることさえ忘れてしまっていたと思ったことはないでしょうか。コンピュータの画面に食い入っているようなときは、お腹の血液を頭に循環させるかのように、お腹を絞りきるように緊張している。こうした状態が続くようになると、健全な身体の呼吸運動が損なわれ、さまざまな不定愁訴が生じてきます。不眠症、頭がボーッとして思考能力が落ちてきたなどの訴えの他にも、自律神経失調と言われるような症状がでてきます。

健全な身体の呼吸運動とは、通常私達がなにげなくおこっている肺呼吸とは感じが違います。全身に統合されておこる身体の呼吸運動があるのです。研修会では、この健全な呼吸の動きが、足の骨から頭蓋骨まで全身を歯車のように規則正しく揺動させていることを話しているのですが、こればかりは実感できないことには、単なるお話で終わってしまいます。そこをなんとか実感してもらいたく工夫をしています。最初に、呼吸に潜む力動性を体験してもらうようにしています。

喩えて言うならば、身体は海のような力動性があります。海面の波動は、肺呼吸の吸気と呼気の繰り返される律動性に喩えられます。この表面上の動きの内側に潮のような力動性が隠されているのです。海の潮の動きは恐いもので、海水浴で遊んでいるとき知らずのうちに沖へ流されてしまうこともあります。ただ上下運動しているに過ぎない波とは違うのです。表面に見える波の裡に、見えない力動性が潜んでいます。わかりやすく言いますと、身体呼吸の力動性は、呼吸の力強さとでも言えるでしょう。触っていてプカプカ呼吸していても、力強さがない呼吸はなにか虚ろです。虚ろな呼吸ほど、喘ぐように大きな呼吸の動きとなります。呼吸に力強さが入ってきますと、下腹まで呼吸が入るようになり、いわゆる腹呼吸として横隔膜が上下する動きが強くなってきて、表面上呼吸が見えにくくなります。そこで初心者の皆さんには、横隔膜の動きを声で誘導してもらい、下肢の方まで行ったり来たりする圧の変動を観察してもらいます。

実際に研修会参加された方からメールをいただきましたので、紹介させていただきます。

★(永田○子さんからのメール)
興味深かったです。治療を受けてみたいです(笑)
私が通っている体の先生も、ある種の「場」の宇宙論(自己他者論ともいえる)を使って治療をされていますが、それともまた異なり新鮮でした。

人間の体は海で、潮の満ち引きがある・・・そして呼吸を吐ききったあとの一瞬(潮がひいて満ちる前の隙間)に変容のチャンスがある・・・ということが印象的でした。
なるほどなぁと思いました。

これは日常の中で応用できますね。

自分の場にある「偏り」、「滞り」を呼吸をしながら、修正していく。
修正というより、ある意味、偏りをとって自然体になることだと思います。

自分の場というのは、自分の「からだ」とその「からだ」が世界との間に生み出す接合部分、みたいなものだと思います。                



大場先生、こんにちは。
昨日、5月17日の「初めての身体呼吸療法」に参加させて頂きました
佐々木○です。

昨日は施術までして頂いてありがとうございました。
昨日先生に施術を受けてから電車で2時間かけて帰宅した間、
感覚が鋭くなったせいもあるのか、腰と首の痛みは徐々に戻ってきたのですが、
視界が明るく、頭がスッキリとした感じは今でも続いています。
体のバランスもかなり整った気がします。

この効果をあのたった1,2分の施術で出してしまったのは昨日一番の驚きでした。
流れを見ているだけで全身の状態もある程度把握してしまう、
身体呼吸の特長にも驚きを感じています。
非常に貴重な体験が出来ました。ありがとうございました。


最後にこちらのメールで、
昨日の勉強会の内容について分からない点が出てきたので質問してもよろしいでしょうか。
もし不都合な場合は申し訳ありません。来月の研修会で質問します。

というのも昨日の勉強会で、個人的には
かなり前から知ってはいましたが、実感できていなかった脳脊髄液の流れ・律動性の流れを実感することを第一の目標にやっていたのですが、結局あやふやな状態で終わってしまい、残念に思っていました。

そのため帰ってから布団の中でリラックスした状態で、流れを感じようとしていました。
リラックスしていたおかげか、勉強会のときよりは感じ取れた気がするのですが、
以下に、そこで思った疑問について書きます。

1、波といわれるもの以外にも微弱な流れのようなもの(膜が引っ張られるような感じがしました)が常にあって、それが頭から足へ流れてきたり、逆に足から頭へ流れたりしている。
「頭から足へ流れる→足から頭に流れる→再度頭から足へ流れる」
これを1サイクルとして1分6〜12,3回の律動性のサイクルがある。

2、微弱な流れの中に少し大きな波が来るが1回とは限らず、2,3回来ることもある。

こんな感じで当たっているでしょうか?

長々と申し訳ありません。もしご都合がよろしければお願いします。

☆大場からの返答:
佐々木先生
貴重な体験をしましたよね。良かったです。脳脊髄液のこととかはこれからの研修会のテーマです。
ところで、佐々木さんの書かれている感覚は確かなものです。
スジ状に通る流れは臨床で意味あることです。そのためにアナトミ・トレインなどを参考に、膜構造論を論じているところです。
また、体内のリズムいろいろありまして、きっとそれぞれ意味ある律動性でしょう。ぜひ、臨床の場で発見していってもらいたいところです。
それにしも、たいへんすばらしい感性をお持ちのようで、感心いたします。私は数十年かかりましたが、こうしてすでにすばらしい素質をお持ちですから、これから楽しみです。
大場

認定資格

身体呼吸療法を長年真摯に取り組んできた0先生、身体呼吸療法の世界にも認定制をつくってもらえないかと相談をもちかけてきました。まっとうに身体呼吸療法に取り組んできた彼にすれば、習ったことのない治療家が身体呼吸療法の治療家として宣伝していることに憤りを感じるというのです。

認定制度と聞くと、フランスの精神分析界での混乱を思わずにはいられません。人間の無意識なる世界を扱ってきた精神分析は、私たちの徒手療法の世界ときわめて似たところがあるように思えるのです。身体の営みは、ほとんど意識されることがありません。その意味で、身体性とは無意識とも言えます。身体をみていることとは、無意識なる世界をみていることと重なるところがあります。

心と身体が一つになっていて、わざわざ身体を意識することがないことこそ自然です。なにごとも患うことがないということはたいへん幸福なことであります。病気になってはじめて、心と身体のかい離を経験します。意識せざることが身体的な表現として表に現れてくることで、意識と無意識的な世界の二重性に気づかされるのです。

ところでフランス精神分析黎明期にさまざまな分裂騒ぎがおこっていました。フロイトの発見を不朽のものにした功績はジャック・ラカンにおうことがきわめて大なのですが、彼はいわば精神分析の発展において第2世代にありました。ラカンは群を抜く才能をもっていたために、古い革袋では新しいワインをおさめられないように、ラカン自身が意識するわけでもなく無意識のうちにフロイトの後継者達と軋轢をつくりだしていたように想像できます。幼児期の精神分析に大きな業績のあったメラニー・クラインには多くのことを学び大きな影響を受け、学問的な恩恵も大きかったにもかかわらず、彼女の翻訳を自ら請負ながらもの、その原稿を無くし翻訳をうやむやにしてしまったり、はたや精神分析界の重鎮である大公妃マリー・ボナパルトの名前を名誉職に書き記すことを失したり、多くの不可解な行為を知らずのうちに繰り返していました。まさに意識せざるものが意識を動かし続けている様を彼の失錯行動が示しているのです。彼には、フロイトに代わるものとしての自負と自信が育っていたのでしょう。こうした組織の新しい改革者は、旧い組織のなかで軋轢となって組織を分裂させていくことは避けられないことなのかも知れません。
ラカンのたどった政治的な行動と人生の軌跡は、無意識の主体がどのように現れてくるかを示しているのです。

ラカンとフロイトの後継者達との感情的な軋轢は、精神分析展開の方向性やテクニックという理性的な論争において決定的な決別・分裂をもたらしました。精神分析を医学として神経生物学(脳と神経の生化学)を基礎にする方向性に対して、人間科学として心を基盤にする方向性の問題の上に、さらに技法上の問題も鮮明になってきたのです。

ラカンは無意識が言語的な構造を成している(赤ん坊が頭上を行き交う大人のコトバを意味もなく身につけるとでも言えるでしょう)と彼の根本的な考え方を明らかにしました。そこで患者がとめどもなくついで出てくる言葉を句読点で区切ることで、そこに意味をもたらさなければならないと主張しました。これまで行ってきた面接のセッションを時間割で機械的に区切ることは意味がないとして、短時間セッションを主張したのです。これは精神分析の認定資格にもかかわる修業時間数という問題にまで発展していきました。

心の問題という見えない世界で、誰が分析家と認定する資格を与えることができるのかと、ラカンは問題を突きつけました。「精神分析家は、自己自身によってのみ、権威づけられる」と語ったのです。しかしこれはtrickyです。自らを精神分析家と権威づけするなら、あなたは精神分析家としての資格は無いということでもあるのです。なぜなら、自分を精神分析家とするなら、その根拠はラカンの語った「精神分析家は、自己自身によってのみ、権威づけられる」によることになるわけで、それはラカンの語ったことを根拠に自らを権威づけることになるからです。

ラカンの語っていることは、このように逆説的なことばかりのように感じます。私たちが言葉で理屈を語るようなことは、無意識の世界ではありえないからでしょう。

ラカンが、認定資格を希求する人達に求めたことは、もっと深い意味があります。
ラカンは精神分析を担う人達に、自らの心のうちを自らに明らかにすることを要求したのです。精神分析の場では、患者が先生に感情移入する転移があります。また逆に、先生が患者に自らの潜在的な心の問題をかぶせてしまう逆転移なる現象があるのです。まさに心と心の照らし合いが治療の現場で起きているのですが、分析者は映しだされていることが患者の潜在的な問題なのか、あるいは自らの心の問題なのか判断できなければなりません。そこで精神分析者となるためには、かなりの時間、自らが被験者となって精神分析を受けることを求められます。分析を受ける者から分析を行う立場に変容できる過程を踏まなければならないのです。
もちろんきちんとしたカリキュラムが用意されていて、それを修了することは不可欠なことですが、無意識の世界を扱う場合には、勉強したからできるということではないというのです。精神分析者は自らが自己の無意識の底にあるものを見とどけなければならないことをラカンは考えたのです。
しかしラカンの難解の語りは理解されえなかったのです。しかもラカンの考えていたことをどのようなかたちで実現できるというのでしょうか。まさに禅の公案のようなラカンの語りをどのような過程で習得せよというのでしょうか。


たしかに自らが自らを規定することの無意味さ、自己言及の矛盾もありますが、それでも私たち治療家もまた自らを根拠づけて治療せざるを得ない主体性がとても大事であることも確かです。
身体性においても、触れることは触れられることであり可逆的でもあり両義的(どちらでもとれるようなあいまい)な世界です。客観的なものの見方で、誰にでも治療がうまくいくと言えないわけです。私たちの徒手療法の世界では、客観的なことをベースにさらに間主観的な、おたがいに主観的なところで発見する現象を共有して、臨床に役立てていかなければならないでしょう。

施術者と患者さんとの間に生じるそれぞれの場、そこで即興的に創出することは大きな意味をなします。刻々と変化していくなかで、同じことに固守していても進歩はありません。何事も常に新しく生まれ変わっていかなければなりません。そうした進歩していくプロセスにおいて自分の位置を見きわめることが必要となります。

また、自ら感じるものを信じて、主観的な見方で治療行為に反映させていくことも大事なことなのですが、自分が神のように唯我独尊になったり、あるいは誰か(たとえばこのわたし大場を)権威者として奉ってしまってもそれはまた大きな危険をおかすことです。おたがいに進歩発展していくプロセスを共有し、自らの段階を知ることがだいじになります。

認定資格はこうした見地から考えていく必要があるかと思います。
「・・団体の認定資格書」というものも、時には逆説的にその無意味さを露呈していることもあるのです。
身体呼吸療法の認定がどのようなかたちで意味をなすのか、もっともベストのかたちとはなにか明らかにしていきたいと思います。

(ラカンの精神分析の歩みについて詳しく知りたい方は、講談社現代新書、新宮一成著『ラカンの精神分析』をお読みください。ちょっと難解なところもありますが・・・)

無意識なる世界 身体性

精神分析から神経学へ

だいぶ前だったような気がするのですが、20世紀の思想の流れを書いてあった本を読んだときにフロイトのことをあれは科学ではないと批判されている文章があったことを思い出します。でも最近の神経科学の人達が書いていることを読むと、フロイトはとんでもない鉱脈を探り当てていたことを実感するのです。神経科学の旗手アントニオ・ダマジオが、「意識の本質に関するフロイトの洞察は最先端の現代神経科学と一致する」と述べたそうです。(「脳と心的世界」星和書房)。フロイトのことを、まるで20世紀の滓(かす)のように扱った人達は、今日の認知科学の権威が語っていることをどのように受けとめるでしょうか。

根源的に消去されたものとの結びつきを欲動する心のはたらき、それをフロイトは主体と呼びました。精神分析でいう欲動とは、無定形で原初的な生命活動のことを言っているのでもないといいます。しかも、生物学的な恒常性(ホメオスターシス)を言っているのでもないということです。むしろ、生命を抜き取られた、全体へと統合されることのない残り滓、あるいは糞とさえ言われています。しかしこの無生命的な残り滓が、原初の孤独な主体に立ち返えさせんとして、不可解な効果を意識に及ぼす効果をもたらしている、とフロイトは発見したのです。精神分析が扱うのは、生命が消え去ってしまったということが人間の中に残したさまざまな効果であるというのです。(新宮一成「精神分析の内景」、岩波講座現代思想3)

残り滓、これをどのように理解すればいいでしょうか。神経学的に言うならば、なんらかの神経系にのこされた痕跡ということになるのでしょう。ある出来事における経験が知覚され、それがシナプスに痕跡としてのこるということです。

経験が痕跡をのこすという考え方は、精神分析と神経学を結びつけていくための、これからの出発点となります。意識的にも無意識的にも、知覚と知覚の刻印がさまざまなレベルでのこっていくということです。そして経験の刻印ということだけでなく、さまざまな経験に際してその痕跡と結びつくことで、無意識の世界を構成していく数限りないタネとなります。夢や幻想といった<内的な現実>のストリーを構成するネタにもなるわけです。

赤ん坊は絶えずいろいろな刺激にさらされています。赤ん坊には意味の分からないコトバが頭上を行き交っているのですが、意味がわからなくともコトバの素材となる音の繋がりは経験として刻印されていくのです。ラカンはこれをソシュールの言語学から、知覚の印としてシニフィアンを借用したのです。

ラカンはフロイトの解釈として、無意識を生命の消去の上に成り立つという考えを展開したことを前に述べました。「主体の消去」の概念は、すでに消し去られた終焉の後の残骸としてのあり方を問うものであると、岩波の講座に難しく書かれています。このことを神経学的にみますと、知覚に結びついた経験(赤ん坊の母との一体化した悦び)は消えてなくなるものですが、その痕跡へとつながるシナプスの可塑性が神経のネットワークになにかしらのこり、その効果がおもいがけないかたちで現れるということになります。

「シニフィアンとはなんらかの対象を指す意味の記号としてあるわけではない。それは対象の存在を示す記号ではなく、消し去るという主体の根源的な運動を代理するもの、すでに無いものを可能性の次元において与えるという一つの所作として機能するのである。コトバの発声は、根源的な主体の消去であったとしても、そこには能動的な主体の創出が生じている。すなわち主体は空っぽになった自己を他なる記号の場所へと登録しなおし、新たな可能性の次元をそこに見いだして生きることになる。」(「ラカン」福原泰平)

「母子一体の満たされた至福の時間は過ぎ去るものであり、その悦びはもはやもう無い。すでに無き悦びをいかに蘇らせることができるのか。乳児は、母の乳によって空腹という緊張を解放することができるが、これは欲望の次元とは異なる。欲望の次元においてはその対象が直接充足されるものではない。すでに無きがゆえにそれを熱望せざるを得ないことが構造として成り立っている。欲望とは、すでに失われた後の、心的に欠けたものの現実のことである。欲望は最初の満足の記憶痕跡という一つの印を通して呼び出されてそれが活性化されようとする。その印によって叶わぬ悦びが、いつかまた悦びがもたらされるかも知れない可能性を約束する証文のように、失われた悦びを待ち続けることになる。しかし、かつての悦びを知る記憶痕跡(印)は、また新たな約束の印によって貼り替えられなければならない。乳児は欲望を満足させてくる対象を記憶の痕跡の中にてあたりしだい探すこととなる。」(「ラカン」福原泰平、講談社)

無意識はこうしてシニフィアンの宝庫となるというのです。この無意識の世界では、シニフィアンは自由に集合離散し合います。それをラカンは、「無意識はシニフィアンの戯(たわむ)れ」と表現しました。無意識においては、意味のないコトバの繋がり、語呂合わせのように音やリズムの類似性から結びつきあい、あたかも縦糸が紡かれてゆくような連鎖となるのです。しかも無意識においては、個人史に関わるコトバや観念の残滓が無秩序に集合し、横糸のように縦糸に結びついていきます。そこにはかつて意識によって抑圧・拒絶された嫌な思い出に通じるコトバや観念の残滓もあります。まさに無意識とは「シニフィアンの戯れ」となりえるのです。シニフィアンとは、いまだ意味を持たないコトバですが、そこには主体の失われた感性を漂わせているのです。

シニフィアンの戯れによって、夢や幻想のような<内的な現実>が現れてくるのです。

神経のネットワークに織り込まれた痕跡はまた、<外的な現実>に対する関係にも立ち現れてくることもあるわけです。経験につれて獲得されたものが痕跡をのこし、その痕跡によってすでにあったものが修正を加えられる。ニューロンの結びつきは、経験を通じてたえず修正され続けられていきます。私たちは変わってゆくのです。

こうした痕跡は、ニューロンとニューロンの間のシナプスの可塑性というメカニズムによって、一生にわたって刻印され、結合し、消失し、修正され続けられることになります。シナプスの可塑性という概念は難しいかも知れませんが、言い換えれば私たちの神経ネットワークは、比較的自由に組み替えられる柔軟性があるということなのです。

フロイトは、心的生活のほとんどは無意識的にはたらいており、意識は精神の一部の特性にすぎないと主張していました。今日、大部分の精神機能が無意識に作動しているという考えは認知科学の常識になってきています。たとえば、私たちはなにか動作や行動を始めようとするときに、当然自分の意志によって行動し始めたと思っていますが、実はそうした気持ち(意志)が出る前に、すでに身体の方ではその動作の始まりが起こっているという驚愕すべき事実も明らかになりました。自由意志が心に浮かぶ前に、すでに身体は活動し始めているのです。


ところで、私たちの意識は、脳幹レベルからの賦活系の活動やその方向付けによって支えられています。したがってこの脳幹レベルでの活動こそが無意識の中核となるべきところでしょう。また、脳幹は内臓の営みを管理し、大脳皮質に出力しているところです。内臓の状態や、血液・リンパ・間質液や脳脊髄液などの内部環境と密接に関わっています。

私たちの意識レベル(状態)は、脳幹を介した内臓の内部環境の状態を(体温、血糖、電解質、ホルモンなど化学的ですが)基盤にしていることから、著名な神経科学者ダマジオは身体的な記憶もまた、ラカンのシニフィアンのようなはたらきをするものと考えたのだろうと勝手に思っています。彼はソマテッィク・マーカーと呼びました。それは自分の中でなにが起こっているのかという感じをもたらす自己への気づきとなる基盤となるのです。

乳児はお腹が空いていると、低血糖や脱水状態という明確な内部環境に基づく身体状態にあります。乳児はこの経験を泣くことで表現しています。乳児は泣き声(シニフィアン)と身体の窮乏状態を一緒にまた経験することになります。乳児にとってこのとき<外的な世界>と<内的な世界>がともに結びついています。乳児は外的な世界についてどのような感じが生じるか、気づきが生まれていきます。乳児の泣き声を聞いて、母親はあやしながら(別のシニフィアン)、乳房を口に含ませてくれるというまた別の経験が生じます。そこで乳児の身体の緊張状態はいっきに軽減されていくでしょう。神経のネットワークでは可塑性のメカニズムによって複雑な痕跡がいろいろな段階でかたちづくられていくのです。こうした痕跡は、バラバラに解体することもでき、またあらたに結びつくこともあるでしょう。また泣き声で母親が現れないこともあるでしょう。そのとき乳児は自分の親指をしゃぶったりして、また新たな行動によって快い身体状態に達することもあるわけです。さまざまな経験の中で、かつて母親と一体にあった快い初期の満足状態を忘れることはないのです。

赤ん坊の空腹のさいに生じた身体的緊張、そしてそれを癒してくれた乳房は、身体的な経験の痕跡(情動)としてのこっていくわけです。私たちの意識は、こうした赤ん坊の体験した情動的な気づきを基盤に形成されていくのです。

身体的緊張状態は<内的な現実>と呼んだ幻想とも容易に結びつくものです。無意識の世界では、時間もなく分けもなく、いろいろなことがそれぞれの有するタネによって容易に結びつくことができるのです。無意識の中で構成された痕跡のネットワークは、ソマティック・マーカーと結びつき、身体的緊張状態を生みだすことが考えられるでしょう。身体的な不調はこうして生じてくると考えてもいいでしょう。心身症、精神障害などいわれるさまざまな症状をこのような方向で理解を深めることができたら、身体呼吸療法もまたさらに深めることができるかも知れません。
心と身体
難治性の症例から 
愛称サザエさんと私が名付けた37歳の女性
この女性は2年前に、大阪豊中市の平野先生からのご紹介をいただいた患者さんです。

平野先生は学問的にも技術的にもそれに人間的にもたいへん素晴らしい先生で、この業界で何人か優れた先生を選べと言われたら、真っ先に平野先生をあげたいと思っています。

なんとこの患者さん、平野先生の治療を受けるために東京から大阪へ引っ越ししていたというのです。ようやく症状が落ち着き、東京にもどってくることになり、毎月、大阪に通院していましたが、大阪まで通い続けることもたいへんということで、私のところへ通うようになりました。

最初の頃はとにかくたいへんでした。頭に触れるだけでも頭痛がでてきたり、顔面が痛くなったり、首・肩・腕に痛みやしびれがでてきたり、そして腰から足の裏まで、全身に伝播するように症状が、その場で現れてくるのです。収拾がつかなくなるということはこのことかとも思ったものです。
とにかく結果を出そうと焦ってみても、いかんともし難いことを悟って、無理なく正中の身体呼吸が通るように努めました。短い時間ながらも施術が終わると、ぐったりとして直ぐに動き出せるような状態ではないため、上の部屋で1,2時間ほど休んで帰ってもらっていました。

それにしても、こうして身も心もボロボロな状況にある患者さんを親身になって、何年も面倒みてきた平野先生には敬服せずにいられませんでした。大阪の生活はだれ一人知人もなく、当初は泣いて暮らしていたそうで、毎日、平野先生から出された宿題(子供の頃からの思い出や、悩み、考えていることなんでも書き留める日記)を書いていたそうです。そのうち、外でバイトを始めるように言われ、不安ながらも短い時間から勤め始めたそうです。外に出ていることで、忙しさの中で症状をあまり気にすることも少なくなり、だんだんと自信もついてきて、職場でいい友達もできるようになって、しだいに心身が癒されてきたとのことでした。私たちの治療は身をいくらかでも癒すことはできても、やはり心を癒すということは周囲の温かいはたらきがあってのことです。

平野先生のアドバイスで、つらくても外に出て働いてよかった、と振り返ることがありました。ちょうど同じような難治性のケースで、若い女性の患者さんがつらい症状に涙している様子をみて、自分の体験から気をまぎらすアドバイスをしていました。この若い女性の患者さんについても次にリポートしたいと思っていますが、この二人の共通点は、カイロを含めていろいろな治療を受け、なにかしら精神的にも身体的にもダメージを受けた患者さんです。

施術者が、“あなたの頭蓋はひどく歪んでいるよ”、“こんなじゃ死ぬよ”と、施術中に投げかける言葉がそのまま素直に入ってしまう性格の人達でしたので、治療行為という名の身体的な刺激と重なって、脅しのような言葉がかなり精神的な外傷を与えているように思えるのです。素直な性格の良い人達にとって、施術者の言葉はたいへん危険なことがあるのではないでしょうか。

私のところに来て半年位してから、サザエさんは正中に身体呼吸を通す感覚がわかるようになってきていました。
なんといってもうれしいことは、いつも調子が悪くなり始めるときは、咽カゼを引くような兆候が現れるといい、正中を通すとこれが消えるというのです。
慢性疲労症候群のうち咽にカゼを引いたような違和感を訴えますが、脳内ホルモンの異常と関係しているのでしょう。

正中に身体呼吸を通すために私が考案したテクニックの一つなのですが、斜めに立っているテーブルに身を任せておいて、そこから両手を引いて、身体をまっすぐにしたまま起きあがらせる簡単な操作です。身体を一本の軸のようにまっすぐさせて起きあがらせますが、これは簡単そうで、なかなかできない患者さんが多いのです。身体に軸が通っているように、身体をまっすぐに保つことができないのです。要領さえ分かれば簡単なのですが、いろいろと頭で考えてやる人は、またできなくなります。とにかく自然に起きあがってくればいいことなのです。(写真を参考にしてください。)

起きあがり小法師


このとき、身体呼吸療法では患者の正中に気を通すように、感覚的なことですが、施術者を自分のハラを中心に患者を引き上げます。正中に気を通すと言ってもあくまで感覚的なことですから、言葉であれこれ表現しようがないのですが、身体呼吸をながくやれば自然に身につく感じです。

私のところに来てサザエさんが変わったのは、このテクニックがきっかけかも知れません。
とにかく自分で正中に通すという感覚を得て、具合が悪いときに自分でやってみて通すことができるようになったというのです。なにか正中に通った感覚があると、不思議なことに痛みが消えてしまうことを体験し、たとえつらくても痛みは消えるのだということを知り、とてもうれしかったそうです。これが自信となり、かなりきつい仕事にも就くことができるようになり、1年目には、かねからの夢であったイギリスへ旅たつことも敢行できました。

頭で分かろうとする人は多いのですが、感じで分かるというところまでにはなかなかいきません。感じで分かるということは漠然としていますが、これは頭でなく、身体で分かることなのです。感じること(フィーリング)はこころもとない感覚ではありますが、頭で理解することとは違う身体的な知覚です。フィーリングはとてもたいせつです。

サザエさんに、“貴方のように長いこと患っている人達もこうして良くなることがあるということで希望を与えられるから、このケースリポートに協力してよ”、と頼みました。不承不承、彼女は、“今だからこうして話せるのよ”とこれまでの経緯から語ってくれました。

症状の始まりは歯科治療でした。どうゆうわけか、歯の痛みがなかなか治らず、逆に痛みが増すばかりで、とにかくいろいろと回ったそうなのです。
訊くと、このとき23歳、英国留学を希望していたそうなのですが、家族の反対で実現できず失意と葛藤のうちにあったとも語ってくれました。
そのうち腰にも不調があらわれはじめ、カイロ治療から整形まで、これもあれこれ回ったそうなのです。カイロでは、先生のきつい言葉に心がますます傷ついたようでした。
しまいには心療内科まで行くような状況であったとのこと、あきらかに精神的なことがうちにあったことがわかります。

行くところ行くとことあれこれと訊かれることがつらく、こうして話せるようになっていることがうれしいと、サザエさんのような明るい声と笑顔を見せていました。

サザエさんのような難治性のケースでは、治療行為による身体的な刺激と言葉、それに心理的要因による刻印の残骸がいろいろとのこっていたのでしょう。そうした痕跡がたがいに集合離散するかのように、身体症状が現れ、どこからともなく不気味な不安がかもし出されていたように思えるのです。

こうしたケースは、治療は安心感に結びつく方法で、新たな快いフィーリングを呼び起こし、混乱したネットワークを修正する必要があります。そして新たな自分自身を認知・経験することで、自信が得られるようになったことが良かったのでしょう。

身体呼吸療法の研修会では、施術者が与える刺激はいわゆる神経学的には教師信号となるようなシグナルでなくてはならないと語っていますが、これがうまく当てはまったケースかも知れません。教師信号の機構は小脳機能のところで出てくる話ですが、またいつかここでも、こうした神経学的な応用をまとめられたらと思っています。

(ちょうど今、山口県の大野先生から11月8,9日に、山口で身体呼吸の研修会を企画案が出ていますが、そこでまとめて話をすることにしても良いかも知れませんね。どうでしょう大野先生)
再び、認定資格問題
認定資格問題では実にたくさんのご意見をいただくことができました。仙台の本多先生はなんと4時間も費やしたということを後で聞きまして、この問題に対して真剣に考えていただいたこと、ありがたく思っております。(このコーナーの最期にコメントを書き込めるところがありますので、せっかくですので本多先生の意見を貼り付けさせてもらいます。)

患者さんもそうですが、精神性にかかわること、生き方に関わることがあると、心の揺さぶりがあるようです。そこに意識と無意識の二重性のぶれを微妙にみることができます。認定資格という表現は、なにかしら揺さぶりを引き起こすものがあるようです。

ところで皆さんの意見を拝見し、教えられたことは、身体呼吸療法をやっている人達はごく少数のマイナーなグループであり、認定を求める人達はどれほどの数なのかということ、それに同じ仲間内で認定どうのこうのということより、「“ん〜。できているね”などと、何気なく直接言ってもらう方が物凄く嬉しく思う」という声がありました。

「ナニナニ協会とかの職業団体とは異なる学徒の集まりで臨床技術の向上のみならず、基礎や臨床の理論的裏づけ等も行っていくべき場ではないかと勝手に思っておるのですが、一緒に研究に参加していく仲間うちに認定などの区別は果たして必要なのでしょうか? それよりは1つでも臨床データを報告した方が、身体呼吸の臨床をしているんだという表現になるのかもしれないなと感じております。そういう自分も何も恩返しをしていないなと今反省しております」と札幌のS先生の意見に集約できそうです。
たしかに、先生それぞれが技量を表現してくれないと評価ができないところであり、身体呼吸療法をやっている先生方には、なにかしら臨床報告を出して貢献していただきたいところです。


身体呼吸も深さが増していくにつれて、いろいろな段階があるように思えます。武道であれば段位とかになるでしょうし、英語の表現を使えば各ステージということになるのでしょう。おおもね、段位性という表現は好ましく響くようです。

今回こうして皆さんに考えていただいた認定資格問題を、やはりなにかしら、かたちのあることとしてのこしておきたいとも思うのです。将来また認定資格が欲しいという声が大きくなったとき(今回は一人だけの声でしたが、)その必要性が避けられない状況でどのようなかたちが望ましいか、この機会に考えておくこともいいかも知れません。

私の意向は、できるだけ共有できるステージ(段階)を明らかにして、勉強する人の道標としたいと思うところがあります。
身体呼吸療法もあるところまで深めることができれば、おおむね一般的な症状に対して適切な身体呼吸療法ができているという段階を見て取ることができます。

とりあえずそうした道標なるものを出したいと考えています。
これから紹介する感想文は、長年、身体呼吸療法で臨床をやってこられたS先生の指導を受けている皆さんに、私が何度か講習したときのものです。その中に、最初に達する段階をみることができます。

☆ 「はら呼吸を誘導するときに、“はい息を吸って・・・、吐いて”と施術者の呼吸に合わせて誘導することを何人かの被験者にやってみますと、被験者の身体に引き付けられるような感じがする人、まったくなにも感じられない人、なにか動いているような感じのする人がいました。同じように誘導しているつもりなのに、どうして違いが出るのでしょうか?

最初に相手と繋がっているという感覚がベースにないと始まりません。身体呼吸療法では、相手と繋がりを得るために呼吸を介するわけです。身体内部の力動性を感じやすい人、まったく感じられない人があると言われるように、みなさん同じように感じるわけではありません。

頭蓋骨の動きとして書かれている教科書的な教えを、実際には感じることはほとんどありません。もしテキストのように頭蓋骨の動きを触診できるという方がいたとしたら、それは思いこみが強く自らがつくりだしたものと言えるかも知れません。

分からないものは分からない、これが求むべき正しい主観的な触診です。できるだけ多くの方に触れて、いろいろな感触を得ることが必要です。
とりあえず、相手と繋がることを体験できたということで、最初のステップを踏み出したと言えます(ステップ1-1)。

☆ 「かわって被験者の側になり、いろいろな施術者の方の誘導を受けてみますと、心地よくとても楽に感じられる人、逆に息づまるような苦しさを感じる人がいました。お互いの息がうまく合っていない感じがしました。呼吸のリズムをつかめていない、自分のリズムを押しつけても、相手との息が合わなければうまく実践できないことを知りました。」

自分の手を重ねて右手で左手を感じようとしても、逆に左手が右手を感じるようにもなり、互いが融合した感覚になります。触れるということは触れられることと同じで、可逆的で双方向性なところがあります。相手を触診しているつもりでも、逆に患者さんに診られていることがよくあります。
施術者がリラックスした呼吸で触れていないと、相手もつらくなります。施術者があまりのも集中的に頑張ってみても息詰るだけです。
施術者は、手と腕だけでなく、全身的に一つになった触れ方が要求されます。背骨を前後に揺らしたときにゆったりと自然にできる呼吸で接することが大事です。この呼吸の取り方を自然に身につけていくことが必要になります(ステップ1-2)。

☆ 「下腿から触診を始めますと、大きく呼吸を促しながら診ていますと、触れている手と腕に何か盛り上がってくるような感覚がありました。しばらく観察していましたら、次から次へと押し寄せてくる感じがしました。何人かの人で観察しましたら、この波のような感じが大きい人、小さい人、分からない人と、それぞれ違いがありました。」

呼吸をうまくつかって、潮の動きのような体液の力動性をうまく引き出しているように思われます。
海に喩えて言えば、波は一つひとつの呼吸です。でも海の中では、海水の流れがあります。すなわち潮のことですが、これは身体呼吸で言えば、押し寄せてはさっと引いてゆくような力動性です。臨床ではこの力動性を引き出して、全身を通す誘導へともっていくことになります。
身体内部の力動性を感じ取ることが、最初の大きな仕事です。そしてこの力動性をいかに全身に誘導できるか、治療の第一歩です。これが最初の段階と言えます。いわば初段をとって、黒帯を締めるようなものでしょうか。

初段階のまとめ
ステップ1-1:相手と繋がっているという感覚
ステップ1-2:施術社自身のゆったりと安定した呼吸
ステップ1-3:身体内部の力動性を感じることができ、全身に誘導できる

さらに第二段階、三段、四段、・・と続くのですが、またの機会に述べさせてもらいます。
ちなみに私こと大場は、自分の査定では六段くらいかと思っているのですが、たいてい自分のことを過大評価しているところがあるかと思いますので、やはり五段くらいでしょうか。
11月8,9日に山口県山口南総合センター http://www.sanbg.com/nansou/
にて合宿を行うことに決まりました。ご参加ください。
マニュアルメディスン研修会あれこれ
ここのところ学会とか研修会が相次ぎ、落ち着かない日が続いています。

10月12/13日に催された日本カイロプラクティック徒手学会も10周年を迎え、学会発表の内容もしだいに研究報告らしくなってきました。個人的には静岡の吉野和廣先生(桜カイロプラクティックオフィス袋井)の「健常者と非特異的腰痛症並びに背部痛症者における脊柱変位像の統計的分析」は、私自身臨床で感じている身体の歪みパターンを統計的に明らかにしてもらったような想いでした。臨床で感じていることを、こうしてきちんとした数値でもって示してくれた方がいらっしゃるということは、たいへん有り難いことです。
学会の直後、清水博先生の「場のアーツ」が催されましたが、今回は本多直人先生にお願いして休ませてもらいました。本多先生に、場の療法・身体呼吸療法を紹介していただいたようです。清水博にとって、最近、私はすっかり不肖の弟子になってしまっています。

11月に入って研修会が相次ぎました。準備や講義などたいへんでしたが、それなりに充実した内容で、私自身楽しくやれたような気がします。身体呼吸療法を提唱し始めた頃、セミナーに呼ばれることがありましたが、セミナーが終わった後に、なにか心に燻るもやもやで、なかなか寝付けなかったことが思い出されます。当初は、受け容れもらえていなかったのです。でも、この頃は参加されてきた方々が、私の話にたいへん興味をもって聴き入ってくれるおかげで、会場に大きな場ができると言いましょうか、なにか大きなエネルギーに包まれている感じがします。11月1日の研修会には、運動連鎖アプローチ研究所の山本尚司先生の呼び掛けに30名ほどの理学療法の先生方が参加してくれましたが、みなさん20代から30代の若い先生方で、とても素直で受容性があり、たいへん盛り上がりました。私自身エネルギーをもらったような気がします。おかげで、翌日の早朝に出かけた名古屋での機能神経学の講義も疲れることなく済ますことができました。この研修会の内容は、分子レベルや細胞レベルの段階から始まりますので、だれでも理解に苦しむものですが、実に40名近くの先生方集まってくれました。どうして、臨床現場からほど遠い基礎的な内容にこうして勉強に来られるのか不思議でもあります。大阪豊中の平野寛先生も来ていただいて、久しぶりの再会でした。“オステオパシの方はどう?”と訊ねましたら、“テクニックはもういいかな、こうした勉強を続けないとね”という返事でした。

後日、札幌の櫻庭由香里先生も、テクニックだけで対処できるほど臨床の世界はあまくないということで、基礎医学をもっともっと勉強したいと語っていましたので、やはりマニュアルメディスンの方向性はこれからも堅持していく必要性を感じたしだいです。

そして11月9/10日と、山口市で泊まりがけの研修会をやって帰ってきました。山口での合宿は、当地で身体呼吸療法の施術に孤軍奮闘されている大野悟先生を励ますために企画したものですが、なにからなにまで大野先生のファミリーにお世話になってしまいました。セミナー参加者が全員で8名でしたので、山口県随一の一ノ俣温泉に宿を取り、みんなで楽しい晩餐会をもつこともできました。大野悟先生は以前に身体呼吸療法の認定問題を提起された先生ですが、このところ身体呼吸療法での施術がたいへん評判となり、休む暇もなく施術にあたっているということで、彼の技量は著しく高まっていました。日常の臨床を身体呼吸療法で十分にこなしていける能力はすでに獲得されています。これでなにか研究発表なり臨床報告なりが出てくれば、私が想定しているりっぱな認定資格の域を超えています。ぜひ自らのうちにあるものを表現してもらえたらと願っているところです。

研修会が終わった翌日、大野先生が休みをとって萩を案内してくれるということで、その途中、日本名水百選の一つ、別府弁天池に連れて行ってくれました。澄み切った水がコバルトブルーの蒼さを反射し、紅葉が始まった別府厳島神社の社に独特の美しさを醸しだしていました。

境内の湧き水を飲んで味を確かめてから、池の水をパシャパシャと波を立ててはその波紋の美しさに魅入っていました。その時は別に特別な感覚は生じなかったのですが、しばらくして車の中で、咽から胸になにか透き通るような清々しい感覚がひろがっていきました。澄み切った水が内と外から共鳴し合ったのでしょうか、なにか透明な気がひろがっていく感じがしたのです。

澄み切った水と透明な気とても印象的な出来事になりました。

今日、患者さんを治療し身体呼吸の状態に誘導すると、あの弁天池の澄み切った水のイメージが浮かんできて、なにか透明な気がひろがっていくような感覚が何度もありました。

またあの弁天池の澄み切った水を求めて、山口で合宿をやってみたいものです。そのときはまた、大野先生、よろしくお願いいたします。

治療後の患者さんの異常感
患者さんのことで相談

久しぶりに知人の治療家から電話が入りました。丁寧だけどなにか急いでいるような口ぶりで、今少し話ができますかということでした。“今だいじょうぶ、どうした”と訊ねると、実は患者さんの旦那さんから電話があって、治療の帰りにスーパーに寄った奥さんが気分悪くなったというので迎えに行ったがどうしたらいいかと訊ねられたというのです。それでマニュアルメディスン研究会で入っている団体加盟の賠償保険のこともあるので、私に相談の電話でした。

治療の後に具合が悪くなったと聴くと治療家も気が気でないのです。心配で落ち着いていられないのです。

浜松の病院に勤務しながら徒手療法をやっておられる木村功先生が、「お医者さんはミスしても決して自分の所為とは考えたりしないけど、治療家は自分の所為だと思ってしまうところがあるよね。それだけ真剣にやっているんだよね」と、先月機能神経学の後に飲みながら話されたことが思い出されます。
木村功先生は病院に勤務しながら、先代の病院長に気に入られて病院の中でスタッフの潤滑液のように活躍されているようです。“治療もやっているんでしょう”と訊ねたとき、「徒手療法やると患者さんがすぐに良くなるので、病院の経営を考えるとね・・」と前に語っていたことも思い出されました。

知人の電話相談のことですが、マニュアルメディスン研究会では、保険代理店の弘中司さんがいつも親切に相談にのってくれます。こうした場合の対応にもきちんと相談にのってくれますので心強いサポーターです。弘中さんはマニュアルメディスンをたいへん高く評価してくれています。季刊誌の内容がかなり専門的であることもその理由の一つですが、会員もプロフェッショナルな方ばかりだからそうです。

弘中さんのアドバイスを参考にしますと、まず患者さんの心情を理解し親身に対応されることが不可欠ということになります。今回のように治療行為が直接問題を引き起こした大きな要因とは言えない場合には、「もし治療に非があったとしたらお詫びしなければなりませんし、きちんと対応させていただきます。ただ、いつも行っている治療でこうしたことがどうして起きてしまったのか不明なところもありますからご理解いただかなければならないこともあるかと思います」とお願いすることも必要です。

さて患者さんサイドに立って、こうした治療後に起きた体調不良について考えてみますと、本人はたいへん不安です。たとえ治療の後でなくても、急に具合悪くなればだれでも一体どこが悪いのかと不安になってしまいます。問題の核心は、自分の身体なのに一体どこがどのように悪いのか分からないという不安です。それを電話で訊ねているわけです。

治療家サイドに似たような事例があれば、それで答えることもできるのですが、人それぞれ状況が違いますし、簡単には言えないことが多く、要領の得ない受け答えになってしまうことも少なくありません。結局、「お医者さんに診てもらう必要がありますね」という通常の受け答えになってしまうのですが、実はお医者さんもたいていは適当な受け答えになってしまっていることが多いようです。私たちが悪いように言われることもあるかも知れません。

そこで考えてみました。私たちがこうした問題が起きたときにどのように鑑別判断していったらいいかです。

治療刺激の直後に局所的な痛みが生じたとき、たとえば肋骨の軟骨の剥離などがありますが、やはり患者さんの身体にとって過剰な刺激になる場合があります。ただこの場合でも、肥満で体重が重くしかも骨粗鬆症であったら、うつ伏せになっただけでも傷害が起きてしまうこともあります。
マニュアルメディスンの立場として、カイロプラクティックなどの直接的な矯正法は十分に注意すべきところで、これを治療の主たる方法にせず神経生理学的な間接法をひろく適用することを勧めています。やはり患者さんの年齢による老化もあるでしょうし、筋骨格系の発達具合もあるでしょう、力による治療を第一に考えることは避けたいものです。これからはやはり身体呼吸療法でしょう。
それにしても昭和の時代とかちょっと昔には、バキバキと結構手荒な治療が喜ばれていたようなのですが、現代人の身体は脆弱になりつつあるのでしょう。

治療の後しばらくして状態が悪化したとき、心身の動揺をまねいた場合には自律神経を介した症状が出るのでしょう。
まず自律神経系は脈管系に作用することになります。血圧の異常、血液循環の障害で起こる症状があります。たとえば血管性の頭痛です。動脈が緊張し部分的に収縮が起こると、血流を維持するために血管が広がろうとするために渦が生じ血管を刺激し、脈打つようなズキンズキンと痛みになります。このような頭痛には吐き気がともなうこともあり、ときには嘔吐してしまうこともあるかも知れません。不眠や過労が蓄積しているような場合に、ちょっとした刺激で起こることがあります。

徒手療法では頸部はとても重要な部位ですので、たいてい施術がおこなわれるところです。そのために後頭下筋群などの頸筋が刺激されることが多いでしょう。もともと全身的に緊張がひろがっていて、治療で緊張バランスが変わったとき、変に首筋が張ってしまうということもあるかも知れません。そのために頸を回しただけでめまい感がでたりすることもあるかも知れません。頭がしめつけられるような頭痛になることもあります。精神的な不安をかかえている場合にはこうした問題が出やすいことが考えられます。

内耳はちょっとした血流障害で支障を来すことがありますので、そのためにめまいがおこります。また、めまいは精神的な不安でも起こることがあります。身体の違和感が強ければ気分が悪くなります。ひどいときには顔面が蒼白になり、冷や汗も出てきます。かなりの疲労やストレスが背景にあるかも知れません。血圧に異常がないかどうかみておくこともだいじでしょう。ただ恐いのは、舌がもつれたり、身体バランスが崩れたりするような状況です。血栓などの脳血管障害の心配が出てきます。必ず専門医で診てもらうことがだいじです。

自律神経に変調があれば、お腹に来ることもあります。腸と脳はとても密接な関連があると思います。お腹の調子が悪ければ、頭もなにかボーッとして、ふらつき感も出てきます。お腹の症状としては、食欲がない、膨満感、下痢といったことが起こります。

肩がひどく凝ってくる、手足が冷える、息苦しいといった症状も自律神経の異常からくることがありますが、潜在的な問題がないかやはり注意が必要でしょう。

自律神経の失調は、心因的なことから起こることも多く、その方のかかえている問題や背景をみてみなければなりません。そうしたことを身近な方に何気なく訊ねてみてはどうでしょうか。

糖尿病、高血圧など患者さんのもっている持病や生活習慣についてもそうですが、あらかじめきちんと顔色や雰囲気など全体を観ておく心の余裕もだいじなのでしょう。

身体呼吸療法を勉強されている方、それにマニャアルメディスン会員の方へのお知らせです。脊椎外科のスーパードクター穴吹弘毅先生を囲む会と、身体呼吸療法研修会の合宿を企画しています。少人数の合宿ですので、穴吹先生を囲んでいろいろとお話しをうかがうことができます最高の機会です。ご希望の方はメール(hotline@manual-medicine-jp.org)か電話(03-3254-8198)でご連絡ください。女性の方も参加できます。


日時:平成21年3月14日/15日
場所:熱海会員制ホテル:リゾーピア熱海SUN(熱海駅から徒歩7分)

スケジュール
 3月14日17時から
      穴吹弘毅先生にうかがう最先端の脊椎外科手術 
          MRI画像と生きた組織像
          激痛と組織炎症の手術所見
      参加者の質問に答えて:治療のこと、患者さんのこと、その他
   19時から懇親会

 15日、朝食後10時から午後3時半頃まで
      身体呼吸療法的脊椎矯正の実技研修(講師 大場弘)
        
今回の研修会ゲスト穴吹弘毅先生のプロフィール:
沼津市西島病院整形外科部長
脊椎外科のスーパードクターとして外科手術だけでなく、マッケンジー法による徒手医学療法の両輪で治療にあたっています。

参加費25000円
穴吹弘毅先生を囲む会のみの参加も可能です(参加費18000円、宿泊費用込み)。
第1回月例研修会報告
 

身体の中の波と潮、
そして呼吸リズムの転調に触れる

1回目の月例マニュアルメディスン研修会を621日開催いたしました。遠くは四国や大阪からわざわざ足を運んでいただいた先生もおられました。初めて身体呼吸療法を知った女性のお二人にも参加いただきました。遠方の方々や初めての方々には早めに来ていただき、一人ひとりに指導させていただきました。みなさんすばらしい感性をお持ちで、初めての体験にもかかわらず、海の波のような内圧変動、それに底流に流れる潮の動きとしてのタイドをみなさん触診できていました。あの感触を忘れずにいて欲しいものです。

 

今回の研修会ではさらに、呼吸がフッと転換する瞬間を捕らえてもらいました。呼吸は複雑系に見られるようなリズムの変調が起こります。呼吸が変わるのです。そしてしだいに深部の呼吸運動のひろがりとともに、転調を繰り返してハラ呼吸から身体の正中軸に身体呼吸へと発展していきます。

 

最初の転調は脳脊髄液を仙骨部から揺動を施術者が加えることで起こります。呼吸が変わった!という実感を持っていただいたようです。

 

参加者全員がそろったところで、講義とディスカッションの時間をとりました。今回はブログで紹介しています呼吸についての神経学的な考察です。有田秀穂先生の言われる意識的な腹筋呼吸と、睡眠時の不随意的な横隔膜呼吸をとりあげ、身体呼吸療法ではいかに横隔膜呼吸を誘導でするかということをとりあげました。その実践的な方法として、脳脊髄液に施術者が揺動を外部から起こすやり方で呼吸を変えてみたわけです。

 

身体呼吸を引き起こすことで、リンパや間質液など全身の体液の流動性を引き潮のような求心的な吸引力を生じさせることができます。この引き潮のような力動性を、施術者は被験者の両下肢に接触して観察することができます。

 

このときの体液の力動性をよく観察することで、ある道筋が浮き上がってくることがわかります。これがアナトミ・トレインで紹介されているような縦に連なる筋膜のラインとなるわけです。もっともラインの筋膜に浸透している体液が不十分であるために、流れが滞ったラインとして浮かび上がるわけですが。

 

これがわかれば適度な圧で流れを促進してあげれば良いわけですから、即、治療となるわけです。参加されていた理学療法の先生が被験者になっていただいた女性の参加者で滞ったラインを浮き上がらせていましたので、“そこまでわかったなら治療してあげなさいよ”と急かしたのですが、初めての経験か戸惑っておられました。未知の一歩に戸惑ったのかも知れません。でも治療は即興的です。機を逃がさず一歩踏み出すことが大事かも知れません。

 

今年度のマニュアルメディスン研究会の活動として、第2回目の月例研修会を719日(日)の午後にまたおこなう予定でいます。初めての方や遠方からいらっしゃる方には、一人ひとり指導できるように早めに始めてみたいと思っています。

マニュアルメディスン研究会の会員の方が優先されますが、メールにてでも早めにお申し込みくださいhotline@manual-medicine-jp.org

 

マニュアルメディスン研修会報告
身体呼吸療法の技術と科学性 

 

 

身体呼吸療法を中心とした研修会をいくつかのところで行ってきました。

この数ヶ月の間に50名ほどの人達が熱心に身体呼吸療法を学んでくれたことになります。

 

身体呼吸療法では先ず身体の呼吸運動を感じ取られなければ始まらないので、初めて学ばれる方々には大きな障壁が最初に立ちはだかっているようなものです。ほとんどのセミナーは、テクニックを指導するのに懇切丁寧なマニュアルがあるのが普通ですが、身体呼吸療法では先ず自分の主観的な感覚で感じることが要求されます。マニュアル的なやり方から入ることに慣れ親しんでいる方々には面食らってしまうようです。感じることさえできれば、あとは自然にすべてがわかってきますので、これほど実践的なことはないのですが、どうしても思考が先に立ってしまうと脇道に入ってしまうようです。おおむね女性の方々は最初から素直に感じ取ることができるようですが、男性はいろいろと思考を繰り返しながら紆余曲折を辿ってしまう傾向があります。女性の中には驚くほど感性豊かな方もいまして、最初からかなり深く理解できる方々も少なくありません。

 

923日に名古屋で行った研修会では過半数が若い女性の方々で、みなさんの感性の良さに驚かされました。伊澤勝典先生がこの研修会を主宰されていまして、彼の人柄・感性がこうした方々を惹きつけているのでしょう。帰り際、振り返えって見ると、駅の構内でずっと私の後ろ姿を見送ってくれていた女性陣が想い出されます。みなさんとても魅力的で感性豊かな女性達ばかりで、とても楽しい一日でした。

 

伊澤先生の指導法は、身体呼吸療法の基本の上にさらに彼自身の経験に基づいた方法論を工夫されていまして、みんなで楽しくワークしながら学び取れる進め方でした。そして、ひとり一人が自ら簡単に実感できるようにと、全身を毛布で巻いて適度な圧力をかけたままで寝かせるなど、たいへんおもしろい試みもありました。心理的に問題がなければ、気持ちの良く自然に身体呼吸が出てきそうです。

伊澤先生はなかなかユニークな方法を開発されていて、私自身とても勉強になりました。特に、ヨガのポーズを連想するような四肢のポジショニングで、正中の呼吸軸を整えるように想えた彼のメソッドはたいへん参考になりました。被験者は仰向けになって、両下肢を屈曲させて両膝を開きます。そしての足の底面を合わせて、施術者はゆっくりと両下肢を伸ばしていくように軽い牽引をかけていきます。途中、滑らかに移動する動きに抵抗感が感じられたらその位置でしばらく休息させ、そしてまた伸展させて最終的に両足の底面は離れて内側面だけが接触するように完全に伸展させる操作です。私も帰ってきてから、伊澤メソッドを試していますが、開いた両下肢を滑り落とす過程で、両下肢と恥骨がなす円環を何か流れる感じが出て、なかなか良い方法と実感しています。左右の両下肢の身体呼吸運動リズムが同調し合うようでこれはしばらく実践的に研究してみようと思っています。この他に上肢の方法もあるのですが、紙面上で公開してしまうのも伊澤先生に申し訳なく、しかも誤って解釈しているところもあるかも知れませんのでこれだけにしておきます。

私も被験者になって実際にやってもらいましたが、術後の立つ感覚を比較してみますと、右足の回内が見事に改善している感じがしました。こうして被験者や実際の患者さんに変化を気づいてもらうことはきわめて意義深いものと感じます。

 

 

身体呼吸療法を学ぶ人達に、いかに身体のなかの波と潮を実感・体験してもらえるか、私自身、ちょっと考えるようになってきました。ひとり一人、手を取って指導することができれば一番良い方法なのですが、人数が多いと十分な細かな指導がゆきわたりません。

そこで、東京の月例研修会では、袋に綿を入れて水で満たしたものを用意してみました。上の方から袋を圧したときの水圧(勢い)を感じてもらい、次に、その水の圧が退いていくとき、水の移動の様子を潮の動きに喩えて感じてもらいました。中に綿が入っているとその繊維の中を移動する水の動きは、結構、触感することが難しいのですが、でも意識が袋の中の水に広がっていくようになるとわかってきます。こうした準備をしてから、実際に身体の内圧変動と体液の様子を感じ取ってもらうようにすると、言葉だけの指導からよりも実践的でわかりやすいようです。やはり感性的なことは言葉ではとても伝えられないことです。こうしたちょっとした水力学的なモデルを使って感性を高めることをやってみたわけです。身体のなかの波と潮を感じ取っていくための一つの手段となるでしょう。

 

 

ところで、オステオパシー・ドクターのW.G. サザランドが最初に表現したところの、身体のなかの波と潮、この水力学的な身体の流動性の特質は、経験を積めばたしかに触感で発見できる感覚です。しかし、初心者が患者さんに触れてすぐにそれが分かるということでもありません。正直言って、みなさん分からなくて当然なのです。

 

私が身体呼吸運動と呼ぶ内圧変動は患者さんが眠りに入ったような状態になってはじめてよく分かります。それは何故でしょうか?

 

身体呼吸運動はハラ呼吸基盤としています。ハラ呼吸とは横隔膜呼吸による横隔膜と骨盤隔膜の間の内圧変動です。横隔膜の下方への圧力は骨盤隔膜によって対峙され、下腹部に圧変動の核が生じます。これを基盤にしているのです。

 

横隔膜呼吸は覚醒状態の呼吸ではありません。それは眠っているときに起こる呼吸運動です。起きているときに横隔膜が呼吸運動に関わっているとは言えないようです。横隔膜以外の呼吸補助筋が主に胸郭を拡張させて呼吸をしているのが、日常生活で起きているときの呼吸です。横隔膜が主に動き出すときの呼吸とは(ハラ呼吸と縦の呼吸運動と呼んでいますが)、眠っているときに現れるものです。したがって身体呼吸療法では、リズム的な刺激で眠りに誘うようにしているのです。たとえば一つの方法として、貧乏揺すりのような刺激を与えて、身体呼吸運動を誘発する方法を教えています。仙骨から骨盤隔膜に振動を加えるのです。そうしますとフッと身体呼吸運動の種になるようなリズムが立ち上がってきますので、それをとらえるのです。施術者がそのリズムをとらえると、自然に患者さんにそれがフィードバックされるようでしだいに増幅されていくのです。この操作は私がこれまでの臨床経験から自然に結実した最近の誘導法のかたちです。ここで貧乏揺すりと言いましたが、最近Erick Franklinという方のボディワークの本を見ていましたら、小太鼓を叩くようにスティックで小太鼓の膜とみなした骨盤隔膜をたたいているイラストがありまして驚きました。まさにそんな感じなのです。しかももっと驚いたことは、下腹部からお腹の正中に噴き上がる噴水のイラストです。骨盤隔膜の振動が体液を噴水のように噴き上げる力動勢を表現しているのです。科学といえなくとも、たがいに共感しあえる間主観的な真実があるということになるでしょう。

 

間主観的な現象は科学として成立するために重要な発見となるのです。

 

身体呼吸療法は科学として実証できる状況証拠を最近見つけることができました。循環系の研究で、まさに身体呼吸運動に関わるリズムが自律神経の活動波として注目されているのです。

詳しく紹介するとなるとここではたいへんですので、いつかきちんとしたReviewとして論文のかたちでまとめたいと思うのですが、要点だけ述べてみます。

 

筋肉の交感神経の活動リズムを周波数解析してみると、二つの波が現れるのです。一つは周波数0.1Hzの波で、二つめは0.3Hz近くにピークを持つ波です。この二つめの波が呼吸波と一致しています。すなわち筋肉への交感神経活動に呼吸の波が入ってきているのです。この二つの現れ方が休息時と活動時では変わります。筋肉の活動が高まると後者の波の現れ方少なくなります。このことこそ、私が長い間、仮説として主張してきたことなのです。身体の隅々まで呼吸運動の波動が及ぶことがきわめて重要であり、痛みや筋肉の異常な緊張はこうした波動が及んでいないために生じていると主張してきたいきさつがあります。

 

たぶん私が初めて頭蓋の内圧変動をきちんと測定し、Dr.サザランドの主張した頭蓋のリズミカルな膨張収縮運動を明示したと思うのですが、あれから20年近く経ったのでしょうか、今ようやく身体呼吸療法の生理学的な根拠が明らかになってきたという感慨がわきあがってきます。

 

身体呼吸療法は単なる手の術(手当)ではなく、生理学的な機構に基づく確かな治療法として発展できるのです。身体呼吸療法を学びたいと思っている若い人達には、志を高く持って学んで欲しいものです。

 

 

 

 

舌のしびれ
 

 

歯科の先生方にはよくあることでしょうが、舌のしびれを訴える方がいます。

舌痛症ともいわれるようです。

 

この問題について気になりましたので、ネットでざっと目を通してみたのですが、なかなか本質的なところがみえてきません。

はっきりとした原因が分からない不定愁訴で、ストレスが関与しているということがこの症状の見解のようです。それでも、あれこれと推察される問題点があげられているのですが、たぶん女性によく見られる症状のようで女性ホルモンが関与しているとか、ビタミンB12や鉄分が欠乏しているなどいろいろと推察されています。

 

そして最後に結局、医師に相談しないさいと締めくくられています。

たぶんお医者さんが書かれているものが多いのでしょうが、最初に原因不明と書かれていて、それでまたお医者さんに相談しないさいというアドバイスもなんだ変なものです。

なにか大変な病気があっては困るということなのでしょうが。

舌のしびれだけでなく、たいていの不定愁訴は、神頼みならぬ医者頼みのまま、なんら解決の糸口もなくそのままということになってしまうことが多いようです。

 

この舌のしびれの症状についてちょっと考察してみました。

しびれと言われても、その患者さんが意味するところがなにかはっきりさせないといけません。たぶん舌のしびれと言いますと知覚的な異常を訴えているのでしょうけど。

ら・り・る・れ・ろ、と舌の先を使う発音に変な感じがあれば、運動性の障害ということになるのでしょうが、そういうことではないのでしょう。

 

舌の知覚となりますと、リセプター(知覚神経受容器)の問題、それとも知覚神経の問題、それても高次の神経機能における問題なのかと、段階的に問題の出所を推察していかなければなりませんが、そのための判断材料がいろいろと必要になってきます。

 

まず問題になるのは、リセプターのある舌の粘膜の異常についてです。粘膜の知覚神経、それとも粘膜ですから粘液分泌の問題でしょうか・・

 

粘膜に異常をきたしているような手がかりがあるでしょうか・・

粘膜の乾き、ひび割れ、赤い粒状の斑点などが見られれば、問題の出所は粘膜かも知れません。舌に健康的な水分が巡ってきていないのかも知れません。

 

さて粘膜腺の分泌に関わる神経となると・・・(なんだっけ?)

三叉神経下顎枝の知覚神経とは別なはずですが、それとも分泌腺の分泌を促す神経線維も三叉神経に含まれているのでしょうか・・。一緒だったら三叉神経の問題として先に進めることができるのですが。舌の痛みと粗い触覚の伝導路として、三叉神経下顎枝の知覚神経の関与が大きくなるわけです。

おおざっぱに言えば分泌腺は副交感神経節からの支配なのですが、舌の粘膜腺分泌のこととなると・・・、それに唾液が舌を潤すこともあるでしょうし・・・ (後で調べてみる必要があります)

 

視点を末梢から神経系中枢に移しますと、脳幹で縦列している各脳神経系の核の配列が注目されます。たとえ位置的に離れていて別々の脳神経核であっても、同じ時期に発達してきたものは結構結びつきがあるようなのです。

喩えていえば、それぞれ違った分野で活躍していても、同じ学校の同窓生はいつまでもたがいに強く結びついているようなものです。必要なときにはいつでも情報交換ができるわけです。

 

副交感神経の仲間に注目すると、それぞれ離れていても同じ系列で縦に並んでいます。

また、知覚神経に関わる核に注目しますと、さまざまな脳神経が、脳幹の結構ひろい領域にわたって隣接しています。三叉神経の脊髄路核は延髄から頸髄まで達しています。

こうした脳幹レベルで、舌のしびれをもたらす原因があるとしたら、どのようなことが考えられるのでしょうか・・。実に難しい問題です。

 

それでも気をとりなおして考えてみますと、弧束核というとても重要な中枢が注目されます。これは内臓性の知覚に関わっていますが、その守備範囲は実に多様です。味覚はもちろんのこと、顔、口、上顎洞からの外受容性感覚を伝える神経線維が入ってきます。また内受容性感覚である内部環境を監視する神経線維も入ってくるのです。たとえば脳脊髄液の水素イオン濃度や酸素濃度を感知して呼吸にも関わっています。それに血圧をモニターしているセンサーからの入力もありますので、心臓のはたらきにも関与しているのです。それに胃腸系の環境も感知しているのです。

 

自律神経制御の最高の中枢は視床下部と言われていますが、脳幹の弧束核はそれに内外の環境に関わるすべての情報を、視床下部に伝える総合センターなのです。

 

さて弧束核が舌のしびれにどう関わっているのかとなりますと・・・

なにかしらの内部環境の問題が弧束核で統合されるときに、舌のしびれという問題に書き換えられて知覚されるということが、ひょっとしたら、あり得るのでは思うのですが。

心臓の病気が、左肩や左上肢に放散する痛みとしてあらわれるような関連痛のような現象が、三叉神経知覚核や弧束核を介して舌のしびれとして表現されていることがあるのかと思ったわけです。

 

 

舌のしびれにはストレスが大きく関わっていることは、臨床での共通した見解です。ストレスとなっていることが解消したら、舌のしびれがなくなったと話してくれた患者さんもいました。

ストレスは全身にいろいろな影響を及ぼしていますので、内外環境に関わる実に多種多様な情報が弧束核に入ってきています。弧束核は三叉神経感覚核にそうした情報の一部を流しているのかも知れません。

 

大脳皮質の知覚領域をみますと、口の知覚に関わる領域はきわだって大きいのですが、舌に関わる領域もきっと大きいのでしょう。なにかしら舌に関わるさまざまな影響が、この大きな知覚野に反映してくるのではないでしょうか。

 

 

さて、舌の感覚について、心理学的なところから考えてみましょう。

赤ん坊はなんでも口に入れて嘗める時期がありますが、これは自分にとって有害かどうか感じとっているのかも知れません。すなわち排除すべきものか、受容できるものかのプリミティブな評価なのかも知れません。

大人になって、嫌悪する状況に対する反応として、舌のしびれが表れるとみることができないでしょうか。なんだかこの解釈の仕方がすっきりとするのですが・・、どうでしょうか。

 

家の犬は、私の腕をじつに優しく嘗めてくれることがあります。

親密さの表れです。