横隔膜の動き
山本尚司先生に“強制呼気で横隔膜が下降する”と聞いてから、このことを思い続けてきましたが、偶然にもそれに関わる発見がありました。疑問を持ち続けていると不思議にもいろいろと発見があるものです。
『うたうこと 発声器官の肉体的特質』(音楽の友社)に出会うことができたのです。この本は、もともと声楽家であったフースラーという方が医学博士になってまとめられた研究書とあります。本格的な専門書です。
緊張性呼吸調整と題して次のような引用があります。
「肺にたくさん空気を吸い込んだときには横隔膜の緊張は少なく、締まりのない横隔膜は胸郭内に引き込まれる。肺の空気が少ないときは横隔膜の筋緊張は大きく、横隔膜は比較的平らになって低い位置をとる。(Bucher 1952)」46p
空気をいっぱい吸い込めば横隔膜は平坦になっているだろうという私たちの常識、これはレントゲン像でも確認されるところなのですが、これとはまったく異なる見解です。どうゆうことなのでしょうか?
これが正しければ、肺の中に空気が少なくとも横隔膜の緊張度は増すことができることになります。能の息の遣い方を理解するうえではなるほどとも思えるのですが・・・。
横隔膜が下降することと別に、ベースとなる横隔膜の緊張状態があるということかもしれません。これはまさに意識でコントロールできない自律的な緊張バランスにもなるわけです。
きっとこれはマッスル・トーンのことを言っているのでしょう。筋肉には絶えず緊張が生じています。そうでなければ肩は外れるし、歩くこともできなくなります。そうした緊張度は適切にセットされているわけです。横隔膜もそうしたマッスル・トーンがあって、適切な緊張度を保ち、深部腱反射にみられるような伸長反射が、胸郭の陰圧に対して対抗するということなのでしょう。
吸気と呼気の絶え間ない律動性のなかで、この生理的な緊張バランスは容易に乱れやすいと、『うたうこと』で指摘しています。ましてや誤ったイメージのもとで意識的に横隔膜を収縮させようとしたら、理に適わないことを強制して歌うことにもなります。
続いて、「呼吸の足場枠組み」と小見出しで、体幹筋の役割が強調されています。
声楽的発声における呼気の過程はきわめて精緻な運動過程であり、それが自由に営まれるためには何か足場となるようなものが整えられているというのです。
まさに、私が考えてきたようなことが指摘されているのです。運動のなかから獲得される体幹筋の適度な緊張があるというのです。背筋を伸ばし骨盤帯が後傾する方向の力の流れが描かれています。骨盤帯を後傾させ起立筋を緊張させてみると、内・外腹斜筋も収縮しているのがわかります。先回、木村功先生がコメントしてくれたところと共通性があるとも言えます。
ただ、能の場合には骨盤帯を前傾させて、かなりきつく腰を入れるかたちで下腹部に力を込めますので、オペラのような西洋的な声楽技法とは異なるところです。それぞれの技芸に特有の身体技法があって然るべきです。能の謡では、グッと腰を入れてハラ(丹田)を充実させていることを“根を張る”と表現しています。腸腰筋を緊張させているように思われるのです。
さらに、発声における呼気器官の運動について下記のように記述されています(47p〜)。
「呼気の呼出は、歌唱にさいしては、胴体下部の内上方への運動によっておこなわれる・・・。先ず背面では、胸部背面から側腹まで及ぶ下部浅層の背筋による。・・・力強く下方から促進するという呼気のやり方によって、胸郭のかたさはとれ、呼吸器官は喉頭がつり下げられている筋肉網(舌筋や舌骨筋など)とよく協調する。話をしているときの筋肉網の使い方はこのとき解消される。この過程で、のどの中にはいわばゼロ点なる状態が生じる。声の練習や歌の練習はこの状態から始めるべきである。」
「さて、声を出さなければならないときには、この簡単な呼出の仕方では、息はかなり無駄に流されてしまう。それゆえに、それと同時に、呼気を調節する対応動作が加わる必要がある。」
まさに能の謡に通底する息の遣い方、ここでは呼気を調節する対応動作として、その仕組みを述べています。
「この対応動作は横隔膜の収縮によって起こる。横隔膜は歌唱呼気のときにも、その固有の傾向すなわち吸気傾向を捨てない。最初の呼出が短時間に行われてしまうことを抑制する。横隔膜はそのとき上行運動対応して、それに相応の度合で下方へ向かって抑える(この過程と同時に、声門は閉じ、声帯は伸びる)。」
声楽の大家A. Pitanの著書1866から引用し、脚注に次の記述があります。
「横隔膜が呼気のときも収縮し、呼気の力と吸気の力がある均衡を保ち、わずかの空気をわずかの圧力で送り出すことができるようになったときに、はじめて良い発声が可能になる。この呼吸技術によって、すぐれた歌手は、どんな音域の1音でも数音でも、30〜35秒のあいだ出し続けることができる。」
さらに横隔膜に関する記述が続きます。
「横隔膜はその周囲が胸郭の縁についているのだが、その中でもっとも強い筋組織は背部内面にある(横隔膜起始部)。この理由からだけでも、正しい歌唱にさいして、推進力の主体が下背部から起こることがわかる(偉大な歌手は背中で歌うのである)。横隔膜はそれ以外にまったく意識的な取り扱いはいらない。」
「横隔膜は呼気のあとでまったく自動的に吸気と結びつく。それに対して全然注意を払う必要はなく、まったく意志の働きを必要としない。意志をはたらかすことはかえって、法則に適った調整の流れを乱すだけだ。効果的に十分に呼気をする方法を会得しないうちは、決して正しく吸気を行えるようにならないだろう。」
ここでやはり注目すべきは、横隔膜の自然の理です。それぞれの身体技法に左右されることのない自然な営みのありかたなのです。本来の生理的な活動そのものとも言えます。
注意を払うべきは背筋をピンと張り、胸腰部の張りをしっかり保つことと言えるでしょう。横隔膜の起始部に隣り合って上から交叉し、脚の付け根(大腿骨の小転子)へとのびている大腰筋のしっかりとした緊張保持もまた大切ということになります。このことで横隔膜の脚をしっかりと保持し根を張ることができるからです。
安定してゆったりとした姿勢にこそ、横隔膜のマッスル・トーンが適度な張りをもつことができます。それに骨盤隔膜のマッスル・トーンと相まって、下腹部(丹田)に力を込め維持することができるわけです。
呼吸にとらわれることなく自然のままに稽古に励むことで、より深く横隔膜のはたらきが生まれてゆくことだろうと思うわけです。